医者と親子の謎《なぞ》
門口《かどぐち》で医者と親子が待っている
むかし、むかし、わたしが大学生であった時分は、いとものどかであった。金ボタンの制服に制帽という、ウブな学生もいるにはいたが、講義に出る時だけ袴《はかま》をはいて、あとは角帯の着流しという連中が多かった。学生を売物にする料簡《りようけん》が希薄だったのである。
冬になるとドテラに袴をはいて、二重まわしか角袖という山賊みたいないでたちで、カゼの気取りでノドにホータイを巻き、大型の薬ビンに焼酎《しようちゆう》を入れてきて、講義の合間にチビチビやる猛者《もさ》もいた。
何しろたまにカフェーなるものに行くと、白いエプロンを後ろで蝶々むすびにした女給さんがいて、朝顔型のラッパのついた手回しの蓄音機が、今や森繁《もりしげ》の十八番となった『枯れすすき』をはじめ、感傷的な流行歌をとぎれとぎれに流すというスローテンポの時代であるから、ノンビリもいいところである。したがって、教授もしゃれたもので、今のようにお時間だけノートを読んでチョンという、味もそっけもない完全職業型は存在しなかった。とくに文学部の教授は、学者とはいえ、いずれも文人|気質《かたぎ》で、その講義ぶりはおもむきのあるものであった。
大学にはいったばかりの、しかも最初の江戸文学の講義の時のことである。
結城《ゆうき》のそろいに、狂言師がはくような横縞の袴をはいた教授は、たとえば清元《きよもと》と常磐津《ときわず》ぐらいは聞きわける耳を持たねばならぬとか、山の手から吉原へ出かけるには、駕籠《かご》という手もあったが、お茶の水から川船に乗って神田川《かんだがわ》をくだり、柳橋《やなぎばし》で急行の猪牙《ちよき》船に乗り替えて大川に出て、聖天《しようでん》さまの下の山谷堀《さんやぼり》に上がり、土手八丁を通って大門《おおもん》に出る、といったぐあいに、江戸文学を学ぶについての基礎知識をコンセツテイネイに説きしめしたあげく、この「門口で」の句を黒板に書いて言われたものである。
——もし諸君のうちで、即座にこの句の意味のわかる人があったら、わたしの講義は試験を受けなくとも優をつけてあげよう。
もちろん、だれひとりとして答えられる者はいない。
——先生、その門口はどこの門口ですか。たとえば忠臣蔵の何段目かの門口といった故事があるのでしょうか。
とだれかがきくと、
——きみ、それがわかれば、半分はとけたようなもんだ。まあ、きみたちにはまだ無理だろう。そのうちにわかる時がくるから、川柳だなどとばかにしないで、せいぜい勉強するんだネ。
そういって、サッサと出ていかれたので、わたしはあわてて追っつき、
——先生、せめて出典だけでも教えてください。
ときいたら、
——ああ、それはネ、普通の雑俳《ざつぱい》集にははいっていないんだ。松浦静山《まつらせいざん》の『甲子夜話《かつしやわ》』という随筆に出ているよ。
ということであった。
そこでわたしは、さっそく、図書館にとんでいった。著者の松浦静山は肥前平戸《ひぜんひらど》の殿さまで、当時の著名な学者、皆川淇園《みながわきえん》や北村季文《きたむらきぶん》について学び、和漢の文学に通じた人であった。八十二歳で天保十二年(一八四一)に没しているが、その生涯をかけた随筆が、『甲子夜話』百巻である。さっそくしらべてみると、なるほど、この句が出ていたが、解釈はしてなくて、「さてさて、町人というものはしゃれたことをいうものだ。」とだけあったのにはガッカリした。
そのまま、忘れるともなく忘れていたが、大学を出ていろいろ経験もつみ、古川柳などをいじっているうちに、つぎのような句を発見した。