混 浴
入込《いりこ》みはぬきみはまぐりごったなり
七、八年まえまでは、正月は家にいて、二日三日を開放し、昼すぎから夜ふけまで、若い衆が入れかわり立ちかわり、十人ぐらいはたむろして、飲み食いしていたものである。相手かわれど主《ぬし》かわらずでも、なんとか持ちこたえたものであったが、この五、六年は寄る年波で、とうてい太刀打ちできなくなった。
さりとて家におればおしかけて来るにきまっているので、暮れのうちから松の内を伊豆《いず》で過ごすようになった。ところが今年は約束の仕事を|ど《ヽ》忘れしたために、元日の夜明けにかけて仕上げねば、出かけられぬ仕儀となった。仕事がすんだら朝風呂で身を清めて出かける段取りをしていたのだが、あいにくガスがもれるということなので、やむなく夜明けに手拭《てぬぐい》をぶらさげて二キロほど遠方の銭湯に出かけた。さほど混んでいない湯船につかっているうちに、フト思いだした。
わたしが大学を出てまもなく、劇作家の第一人者故|真山青果《まやませいか》先生のお宅に、五カ年ほど西鶴研究の助手として通勤していた、そのころ聞いた話である。
なんでも先生が若い時分に、佐藤紅緑《さとうこうろく》氏のお宅にやっかいになっておられた時のこと、まだそのころ赤ん坊に毛のはえた程度のサトウハチロー坊やを抱いて、昼風呂に出かけたのはよいが、センダンハフタバヨリカンバシ、赤ん坊のころから豪傑《ごうけつ》の素質があったと見えて、ハチロー坊やが湯船の中で、堅い大きなウンコをして、それがポカポカと漂《ただよ》いはじめた。
この時、常人ならば大あわてですくい上げ、流しで処理してごまかすところだが、なにしろ青果先生は仙台武士である。すこしもさわがず、大声で番頭をよびつけて、
——銭をとってウンコの風呂に入れる気か。亭主をよべ。
ときたものだから、一家総出で平あやまり、大威張りで湯をかえさせたという一幕があったそうだ。
銭湯といえば、今のようにはっきりと男湯と女湯が分かれたのは、警察令で明治十八年に湯屋取締り規則をもうけ、厳重に混浴を禁止して以来のことである。それ以前は江戸から引きつづいて、東京もまだおおむね混浴の入込みであった。そこで、
入込みはぬきみはまぐりごったなり
という句も生まれたわけである。「ぬきみ」は鞘《さや》から抜き出した抜身で、男性のアレのことであるが、同時に貝殻をとり去った貝の身である剥身《むきみ》の意をかけている。その抜身と蛤《はまぐり》がごった返しているという、まことに天下泰平な風景だったのである。しかし何しろ年寄りだけの混浴ではない。それを楽しみに血気さかんな若者や中年男がおしかけるのであるから、
かの娘来たので湯屋がわれるよう
というのはまだ序の口で、
猿猴《えんこう》にあきれて娘湯を上がり
どっからともなく、手長猿のように手をのばしていたずらをする連中があった。湯船が一つで、しかも夜はカンテラで薄暗いのだから、人情というべきか。
娘だから、あきれて湯を上がることにもなるのだが、千軍万馬の内儀《かみ》さんだと、そうはいかない。
せんずりをかけと内儀は湯屋で鳴り
なんだいおまえ、せんずりでもおかきよ、と人まえでやられては、いくらチンピラでも降参《こうさん》である。負けずおとらず、OLの皆さん、ひとつ国電の中でどなりますか。
というようなわけで、男女七歳にして席を同じゅうせず、などとやかましい官製道徳がある一方、江戸の庶民は、職業的なストリップやヌード写真などとはケタ違いの、しかもお安いオタノシミの場所を持っていたのである。だからすっ裸で見合いをして一緒になるのだから、お互いに見当ちがいがすくなかったろうと、うらやましいしだいである。
ところが、ここに松平|定信《さだのぶ》というヤボな殿さまが現われた。寛政《かんせい》三年(一七九一)正月の町ぶれで、混浴を禁じたのだが、ヤボといっても今の役人ほどヤボでなかった証拠に、その町ぶれなるものを紹介しよう。
[#この行2字下げ]もともと男女混浴の銭湯は、場末の町にあったものだが、近ごろでは、盛り場でもやっている。風呂屋どもが、男湯と女湯を別にしては客が来なくなり、暮らしが立たないので、やむなく混浴にしているというのも、無理もないところがあるが、しきたりとはいいながら、盛り場ではどうかと思う。これまでも日をちがえたり、時刻をちがえたりして、男女の別を立てている銭湯もあることだから、これからは場末でも混浴はやめるように。
とまあ、以上のようなやんわりした趣旨である。
さすがに競輪場でファンのアンケートをとるほどトボケてはいないが、何しろ大衆の支持のもとに栄えてきた、競輪などとはケタちがいに実害のない楽しい伝統を禁じようというのであるから、さすがの役人も遠慮したものとみえる。
しかし、こんなに遠慮しながら禁じたのでは、ききめのあろうはずがない。やっと天保の改革(一八四一)のさい、湯船に板仕切りを設けさせるところまでこぎつけただけで、あい変わらずの男女混浴、明治十八年(一八八五)の警察令をまたなければならなかったのである。
このさい言っておくが、男だけが混浴を望んだのではない。女の方でも、あきれながら、どなりながら、せっせと通って見せたり見たりしていたのだから、さすがの幕府も、手がつけられなかったのである。それを明治の新官僚が強引《ごういん》にやめさせた結果、女風呂のぞきの出歯亀《でばがめ》なる人種を発生させたり、ストリップやヌードスタジオなる新商売を生むことになったのだ。それで混浴時代の日本人の方が、お下劣であったというわけでもない。考えさせられる風景ではないか。