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日本人の笑い16
日期:2018-11-04 23:28  点击:290
   縁切寺《えんきりでら》
 
 
  鎌倉の前に二三度里へ逃げ
 
 混浴をたのしんだり、枕絵でひまをつぶしたり、吉原へひやかしに行ったり、今から見ると一見のんびりしているが、これがひとたび公式の男女関係となると、今とはあべこべに気の毒を絵に書いたようなものであった。いっぺん女房になったが最後、どんなヤクザな亭主でも、女房の方から離縁してくれとは言えない仕組みになっていた。
 だまっておん出りゃいいじゃないか、といってみたところで、離縁状をにぎっていないと再婚ができないのだから始末がわるい。
 一方、亭主の方は、気にいらなければいつでも、三下《みくだ》り半の離縁状をやって追いだせたのである。ましていわんや、亭主と合法的に別れて、好きな彼氏といっしょになりたいというような場合は、せつなかったであろう。
 そういう気の毒な女房族のために、家庭裁判所がわりの縁切寺が方々にあったが、中でも有名なのは鎌倉《かまくら》の尼寺《あまでら》、松《まつ》ガ岡《おか》東慶寺《とうけいじ》であった。ここへ逃げこんで二十四カ月、足かけ三年を有髪の尼ですごすごと、自動的に離縁ができたので、思いつめた女房は、江戸から十三里の道のりをすっ飛んで行ったのである。
  ついそこのようにかけ出す松ガ岡
である。そうして自由の身になって、好きな彼氏といっしょになると、
  ふてえやつ三年まって|〆《しめ》るなり
 はじめおかわいそう、あと小にくらしである。
 江戸の女房は、ともかく十三里すっとべばかたがついたわけだが、上方《かみがた》の女房はどうしただろう。やはり尼寺にかけこんだらしいが、東慶寺ほど有名な縁切寺はないようだ。そのかわりというわけではないが、京都の清水寺《きよみずでら》と大阪の真言宗持統院《しんごんしゆうじとういん》に、縁切厠《えんきりかわや》というのがあった。厠《かわや》はおトイレである。これにはいって離縁を祈ると、効果てきめんというのであるが、むりもない。そのふんまたがったかっこうと執念《しゆうねん》を想像しただけで、別れたくならない男はどうかしている。それでも昔の男というものは、女房が自分をきらって別れたがっているということを知ると、意地になって引きつけておく、というサムライが少なくなかった。そういう場合、上方の女房はどうしたか。例によって大阪の町人作家西鶴が、千古不滅の妙手を書きとめているので、参考までに紹介しておこう。銭《ぜに》両替屋の亭主が、女房と別れたいきさつを報告した手紙の一節である。
[#この行2字下げ]寺町《てらまち》の白粉《おしろい》屋の娘、器量《きりよう》も十人なみでしたので、これを嫁にもらいましたところ、わたしがいくら夜歩きをしても、まるっきり悋気《りんき》いたしません。どうも合点《がてん》がいかず、様子を見合わせておりますと、わたしをきらってたびたび暇《いとま》をくれと申します。男として何ともくやしいものですから、憎さのあまり引きつけておきますと、まちがったふりで椀皿箱を打ちわり、仮病《けびよう》をつかって昼寝、店の銭をつながせると、余分につないで損をかけ、漬物桶の塩入れ時をかまわず、あたら瓜《うり》やなすびをくさらせ、行灯《あんどん》に灯心《とうしん》を六筋も七筋も入れて輝かせ、傘《かさ》はほさずに畳み、門付《かどづけ》が来るとどかどかと銭や米をやり、毎日わかした湯を水にしてはいるように、女房の手がさわり足がさわると損をします。このままにほっとくとえらいことになりますので、一日も置くが損と分別して、残念ながら、離縁いたしました。
 縁切寺もなんのその、家庭裁判所くそくらえ、この手を用いたら、たいていの亭主は今でもふた月とは持つまい。
 そうして、すまないけれど別れてくれ、と亭主が言い出した時に、せしめるとよい。星うつり月かわり、鎌倉の東慶寺も今では結婚式場になっている。めでたし、めでたし。

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