陰《かげ》 間《ま》
芳町《よしちよう》は化けそうなのを後家へ出し
そこで、かくあらんよりはと、金持の世なれた後家は、後くされのない陰間《かげま》を買いに出かけたものだ。操は心で立てればよい、という理屈である。
芳兵衛と言いそうなのを後家へ出し
芳町は和尚《おしよう》をおぶい後家をだき
近ごろめずらしくなくなったと見えて、あまりさわがなくなったゲイバーは、江戸時代が最盛期である。そもそもこの男色なるものは、女犯《によぼん》を厳禁した仏門、とくに真言宗の高野山《こうやさん》や天台宗の比叡山《ひえいざん》など、人里をはなれた山岳宗門で栄えたものであるが、やがて中世の動乱期をむかえると、家庭生活なんぞ楽しんでいるひまのない武士たちが、もてあそぶようになった。上は将軍から一兵卒にいたるまで、美少年を愛したのだから、盛大なもんだ。
その習俗は、そのまま江戸時代に持ちこまれたのであるが、なにしろお殿さまやお侍が、正々堂々と大っぴらになさることなので、町人たちも負けずおとらず、若い歌舞伎役者を相手にやりはじめ、男色の全盛期をむかえたわけである。
ただし、これは役者のサイドワークで、武家のそれと違って、芝居がはねてから茶屋によんで遊ぶ営業なのだが、江戸も後期になると、歌舞伎とは無関係に、それ専門の陰間茶屋が出現したのである。今のゲイバーとちがうところは、男のくせに男にしか魅力を感じないという黒いセックスの持主でもないノーマルな美少年を、金でかり集めてそれに仕立てた、という点であろう。そして、そこへ出かける男どもも、別に変態だなどとは、当人も世間も思っていなかったのである。
木挽町《こびきちよう》や湯島天神《ゆしまてんじん》、芝神明前《しばしんめいまえ》など陰間茶屋は方々にあったのだが、日本橋の芳町《よしちよう》が右代表で、宝暦・明和(一七五一〜七一)のころには、百人あまりいた、と物の本に見えている。
陰間はおおむね十四、五から十七、八までが限度で、二十をこえると骨太になって、第二軍に落ちることになる。そこで陰間の異名を当時「たけのこ」といった。その心は、成長すれば堅くなって食われない、というのである。
何分、本職はあの方なので、後家さんなんかが買いに来ると、そういう薹《とう》の立った第二軍の陰間をあてがったのである。
花之丞《はなのじよう》などという源氏名はおかしくって、芳兵衛とでもいったらよさそうな、髭《ひげ》の剃《そ》りあとの濃《こ》い化《ば》けそうなのを出したのである。今でもゲイバーをのぞくと、一見バーのママさんふうが、いい気持そうにゲイボーイをからかっている。あんな調子だと思えばよい。さて最後に二句。
去るものは日々にと後家は盛んなり
もう後家をやめねばならぬ腹に成り
『文選《もんぜん》』古詩の「去る者日に疎《うと》し、生ある者日に親し」の文句取りなのだが、あけっぴろげでなかなかよろしい。しかしいずれは、もう後家を……というハメになるのだから、西鶴のいうとおり、「かくあらんよりはほかへの縁組人の笑うことにあらず」である。
風流と称しながら、なぜ再婚などとヤボなことを言い出したのかというと、昭和現在の日本人の平均寿命は、女が八十歳で男が七十四歳になったからである。この分でいくと、いまに日本の年寄りは後家ばかりになる勘定だ。でないとしても、とかく|ひ《ヽ》弱な上に貧乏な日本の男性は、過労で早死しがちだから、残る若後家のみなさんのご参考までに申しあげたのである。
さて、出合茶屋でのデートや、後家さんの浮気は、ともかく非合法であるから、はらんだが最後、うやむやにはすまされない。
後家をやめて再婚したり、それをきっかけに双方の親が折れていっしょになれた、というぐあいにトントン拍子に事がはこべばいいのだが、家庭の事情でそうはいかないとなると、心中するか、堕《おろ》してそしらぬ顔ですます以外にはない。