新世帯《あらぜたい》
手にさわる物をまくらに新世帯《あらぜたい》
どうも新婚当時というものは、双方がもの珍しいのだから仕方がない。チャンスさえあればころがって、茶筒があれば茶筒、当たり箱があれば当たり箱、携帯ラジオがあれば鳴りっぱなしで引きよせて枕にする。そこで、昔ならば、
新世帯ひるも箪笥《たんす》の環《かん》が鳴り
ということになり、今ならば、
新世帯枕もうなるジャズバンド
ということになるわけだ。もっとも、近ごろは枕なんぞいらない。新婚当時はとくに、いつもきちんと丸髷《まるまげ》に結《ゆ》っていたのは昔のはなしだ。
あら世帯ていしゅを見れば今日も内
子どももヨチヨチあるくころになると、もう珍しくもなんともなくなるから、日曜ともなると、川の字なりで動物園に出かけることになる。
——ねえ、ちょいと、お隣りじゃお出かけにならないのかしらネ。
団地のアパートなぞだと、お隣りの動静は手にとるごとしだ。朝っぱらからムードミュージックなんか、低音で流しっぱなし、時おり、「あれ」とか「いやあん」とか、「うっふうん」とか、あいの手がはいる。
——馬鹿だな、おまえ。三年まえを考えてごらんよ。
と、そこで顔を見合わせてニヤリとする場面である。
あら世帯となりでもつい過ごすなり
そういうしだいで、一日動物園で遊び、ぐったりとなって早寝したんだが、どうもいけない。いよいよ魅惑の夜がはじまって、疑心暗鬼、隣りでなにか物音がすると、それかとぞ思う状態だから、当方としてもはずまざるをえない。昨夜もついさそわれてそうだったが、今夜もまたというしだいだ。
団地といえば、近ごろは引っこしのトラックがつくと、酒屋、牛乳屋、洗濯屋等々のご用聞きがドッとおしよせ、またたくまに荷物をかつぎ上げるそうな。そんなわけだから、うっかり昼どりなんぞしていると、
天しる地しる二人しるご用しる
ということになる。まあ、天や地やご当人たちが知っているぶんにはさしつかえないが、油を売るのが商売のご用聞きにのぞかれたということになると、午前中にそこら中ひろがってしまう。
すこすこの最中だよとご用ふれ
昼どりをふれてご用はくらわされ
ご用ふぜいが言うことと女房消し
ということになる。
——なかなかお盛んだってえじゃないか。
男同士は率直だから、カクカクシカジカだと、満員電車の中でたちまちウワサの出どころがわかり、次の日曜日、ご用聞きにぶっくらわせるということになる。
しかし、うら恥ずかしいインテリの若奥さんともなると、そうはいかない。チクリチクリと岡《おか》焼き半分にいじめにかかるおばさま族に対しては、もっぱら守勢に出ざるをえない。
——アラマー、さよでございますか。ご用聞きなんてものは、あることないことしゃべるのが商売でございますものネ。
スネではない、アソコに傷もつ身であるから、やんわりとはずさざるをえない。というようなわけで、昔も今も、人の行なうべきでない時に行なう場合は、警戒すべしという教訓である。
さりながら、新婚当時は無我夢中なんだから、いくら人前でいちゃついても、人は大目に見てくれる。
——やっちょるな。
と、手前の新婚時代を思いだしてニヤニヤするくらいのもんだ。しかし、その時期もすぎて、結婚第二年目あたり、肌もしっとりおちついて人妻らしくなってから、あいも変わらず手放しでいちゃつくと、庶民がだまっていない。
そこかいてとはいやらしい夫婦仲
——もうちょっと下の方、そこそこ、そこをもっと掻《か》いてよ。
人前もはばからず、かかせる方もかかせる方だが、背中に手をつっこんで掻く方も掻く方だ。これがじいさんとばあさんだと、ほほえましいということになるんだが、こうあつかましくやにっこいのでは、川柳ならずとも、いいかげんにしろ、と言いたくなるではないか。そんな有様だから、
けがれてもよいとはきついはずみよう
月に七日のお客さんの滞在中は、ご遠慮申しあげるところなんだが、男はそれをガマンできない。
——なあに、あとでひと風呂あびればいいさ。
かなんかで、年中無休の看板をはずすようなことはしない。その精進が実って、やがてめでたくご懐妊ということになっても、ぎりぎりの土壇場までは攻撃の手をゆるめない。