倦怠期《けんたいき》
女房の味は可もなく不可もなし
倦怠期ともなると、「我《われ》ハ則《すなわ》チ是《これ》ニ異《こと》ナリ可モナク不可モナシ」という『論語』の文句などかりて、女房の品評をするゆとりもあろうというもんだ。
このころから帰宅もおそくなりがちで、バーやキャバレーのマッチが洋服のポケットにはいっていたり、時にはキスマークを首筋にいただいてきたりするようになる。
しののめに女房まわたをしごいて居《い》
一晩中まんじりともせず帰宅を待っていた女房が、しののめに真綿で首をしめるように、じわじわととっちめてやろうと待機していたのだが、そこは女房といえども、女のはしくれだから、
胸ぐらを取った方から涙ぐみ
ということになりがちだ。
しかし、なにしろ非《ひ》は当方にあるのだから、しだいに女房がこわくなり、ついに恐妻病となり、
さわりゃ産《う》みさわらにゃたたる山の神
と、深いためいきを亭主がもらすようになった時、はじめて女房の座《ざ》は確固不動《かつこふどう》のものとなるのである。
ものぐさい人だと女房ずり上がり
さて、子どもが二、三人もできると、女房はその正体をあらわして、「さわらにゃたたる山の神」とあいなるというしだいは、すでに申しあげたとおりだが、この山の神というコトバは、室町《むろまち》時代の狂言に見えるから、相当に古いもんだ。これは、正真正銘《しようしんしようめい》の山の神さまが語源で、古来、農村で祀《まつ》る山の神は、男神と女神の両方あったが、そのお祭りはもっぱら女房たちがつかさどっていた。そこで女房のことを山の神というようになったのだが、そこはまた、山の神さまはおおむね荒れ気味だという、スネにきずもつ亭主どもの悲しきユーモアがただよっているようだ。なおまた金田一京助《きんだいちきようすけ》博士のお説によると、古代の田楽《でんがく》舞いに出てくる里の神は、すてきなベッピンであるが、山の神の方はひどくみっともないので、自分の女房を卑下していうようになったという。いずれにしても語源は山の神さまということになっている。
添乳《そえぢ》して棚《たな》に鰯《いわし》がござりやす
仕事から帰ってきて、ウイスキーでも一ぱい引っかけようと思い、
——なにか、つまむものはなかったかい。
と、隣室の山の神に声をかけると、子どもに添乳をして寝そべったままで、ふり向きもせず、
——冷蔵庫にチーズの残りがあったはずよ。
と、それっきりで、うとうとしている。仕方がないからモソモソと台所に出かけて、かじるチーズの味気なさ。こんなふうだから、亭主の方もおうちゃくになって、例の仕事にも熱のないことおびただしく、主題句のような状態になることがしばしばである。
——なんだ、今夜とてもつかれてるんだ。いいようにしろよ。
「山がそこにあるからだ。」などという特攻精神は、若いうちのことだ。年中無休でこき使われ、もはや完全な月給運搬人となりはてた昨今は、もっぱら山麓《さんろく》をうろつくのみだ。そこで、たまりかねて山の方がのしかかって来るという仕儀になるのも、やむをえない成りゆきというもんだ。