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日本人の笑い39
日期:2018-11-04 23:45  点击:286
   愛人バンク
 
 
 さて、新婚時代から老楽《おいらく》時代までの、うれしく、はずかしく、情けない種々相を一とおり見わたしたので、そのしめくくりとして、おめかけさんに登場していただくことにしよう。『和訓栞《わくんのしおり》』という江戸時代の辞書に、「めかけ、物にめかけたる女と見えたり」とあるように、古くは目懸と書いている。それに江戸では「めかけ」といい、上方では「てかけ」といった。目をかけた女に対して、手をかけた女というわけだ。
 今日では妾という存在は、法的な手続きをふんだ公式の妻以外の非公式な妻、つまりパトロン持ちの女性と考えられている。とすると、今はやりの�愛人バンク�は、非公式の愛人である女性を、合法的に会員である男性に世話する組織というわけである。聞くところによると男性会員の入会金は二十万円、女性会員は半分の十万円で、払い込むと好みのタイプの愛人候補を紹介してくれて、双方が気に入ればあとは御自由にというわけだから、手間賃をとって見合いの斡旋《あつせん》をしているだけ、売春のあっせんをしているわけではない。だから当局も手の打ちようはなく、あまり繁昌するので税務署が目を光らせているだけだそうな。
 さて見合いがうまくいっても、けっして正式に結婚するわけではない。男性会員は国会議員の先生がたから有名な俳優やスポーツ選手、会社の社長や重役など、大部分は正式な妻のある夕暮れ族で、女性会員のほうは、お金もセックスも欲しいというギャルたちだそうだから、愛人関係が成立したといってみても、つまりはパトロンと有償・有限の愛人関係、すなわち旦那とめかけの現代版で、愛人バンク業はおめかけ斡旋業というわけだ。
 ということになると、別に事あたらしいことではない。遠く江戸のいにしえからあった業種である。江戸時代も正妻は一人だけ、つまり一夫一婦を建前としたが、しかし地位や財産を世襲で受けつぐという世襲制度で、しかも長男相続制であった。旦那に子種がなかったり、奥方が石女《うまずめ》といって不妊症だったりしても、今なら試験管ベビーでお茶を濁せるが、当時は手造りベビーしか望めなかった。これといってゆずる物もない職人や小商人《こあきんど》は、ジャリがいようといまいと悩むことはなかったのだが、将軍家や大小名、中流以上の町人ともなると、家督をゆずるべき男の子が生まれないではすまない。ことに跡つぎがないことを理由に、改易《かいえき》といってお取りつぶしの憂目《うきめ》にあう恐れのあった大小名方では、三年たっても正室《せいしつ》(正妻)にお子が生まれない場合は、殿様よりも家老などの方が、やっきになって側室《そくしつ》(妾)を探し、すいせんしたものである。将軍家などはまたもとよりで、十一代の家斉《いえなり》などは側室四十人、十六腹に子女五十六人を生ませているのは、いくら跡つぎを絶やさないためという大義名分があったとしてもやり過ぎで、さぞおくたびれだったことだろう。
 そんなわけで建前は建前として、蓄妾制度は公認されていたのだから、れっきとした愛人バンク業が存在したのは、あたり前である。そこのところを十七世紀末の町人作家・井原西鶴《いはらさいかく》が、『好色一代女』巻一で、次のように絵解きしている。
 幕府の役職について江戸詰めになっているさる大名の奥方が、世継ぎの若殿を生まないうちに亡くなられたので、家老どもが心配して、器量と素姓のよい女を十数人えらび、殿のお寝間近くに侍《はべ》らせることになった。ところが殿は見向きもなさらないというのは、関東育ちの女は土ふまずがなくて首筋が太く、心は素直で実意はあるが、とんと色気がないからである。そこへいくと京女は、第一に言葉つきがソフトで可愛らしく、万事に花車《きやしや》風流であるということになって、殿様の好みをそっくり写した美人画をたずさえ、七十余歳の横目《よこめ》(監督役)が京都へ妾《めかけ》さがしに出かけた。
 かねて出入りの室町の呉服所に一件を打明けて世話を頼むと、さっそく一流のお妾周旋業者に申しつけ、その手配で百七十余人が集まり、美人コンクールが始まった。ところでお妾の周旋業者は、話がまとまると前渡し金百両(六百万円)のうち十両(六十万円)を手数料として女から取る。またお目見えの際に然るべき着物のない女は、上着、下着、帯、緋縮緬《ひぢりめん》の腰巻まで一式で、一日に銀二十匁(二万円)で貸す。婚礼の貸衣裳と同じだ。
 さて、百七十余人もお目にかけたが、一人も横目のお気に召さないので、困った周旋屋が宇治に隠れ住んでいた一代女の噂を伝え聞いて、さっそく迎えてふだん着のままでお目にかけると、持参の美人画よりもまさっていたので、江戸へ連れて行かれて下屋敷に置かれ、側室として御寵愛の身となった。すっかり殿様のお気に召して房事過度、お世継ぎができるどころか、まだお若いのに強精剤の地黄丸《じおうがん》を呑んで、お痩せになる一方だったので、そこでまた家老どもが心配して、「都の女のすきなる故ぞ」と、お払い箱になってしまった。
�過ぎたるは及ばざるが如し�という諺を絵に描いたような結果だが、これが跡継ぎを生むと、側室とはいえ「お部屋さま」と家臣から様づけであがめられ、その親には御扶持米《おふちまい》が支給されたのである。そこのところを、
  大名のお手がかかって産みだして
[#3字下げ]恋の重荷《おもに》や当座に千石
と西鶴が連句で詠んでいる。
 跡継ぎがないとお家の一大事とばかり、側室を押しつけられて、インポになるまで奮励努力する殿様は、サラブレッドの種付馬みたいで、哀れにもまたおかしいが、同じ元禄時代でも町人はそうはいかない。上《かみ》の好むところ下《しも》これにならう道理は、何も現代の金権政治と変りはない。金があって身軽な町人は、お上にならって、もっぱらお楽しみ用に妾を抱えたものだ。同じ西鶴作の『浮世|栄花《えいが》一代男』に、こんな話がある。
 今はんじょうの大阪の町人が、郭《くるわ》からの朝帰りで、盛大に夫婦喧嘩をしている。そこへ年配の親仁《おやじ》がやって来て仲裁し、亭主をわが家へ引き立てて行き、女房ともどもさんざん意見したあげく、今日はこれから寺まいりに出かけるところだと、また、かの亭主をつれて出て行った。
それから親仁は、
 ——殊勝な顔をして寺へまいるというのも、やきもち焼きの女房を油断させるためだ。さらばわしの気晴らし所をお目にかけよう。
と、つぎから次へ、色とりどりの妾宅《しようたく》を九カ所もつれまわった。中には女の親に金を貸して綿商いをさせ、ゆるりと暮らしているのもあるといったぐあいだ。ひょっとすると今の�愛人バンク�で意気投合したオジンが、この子は水商売に向くと見込んで、喫茶店やパブをやらせるというケースがあるかもしれない。
 ——これでも郭通いよりは金がかからないし、内そとのぐあいもわるくない。それに色とりどりであきもこない。ふだんの身なりで家を出るから、山の神が気づくこともない。おまえさんも宗旨を変えなさい。
と意見して、花屋で仏前にあげる高野槇《こうやまき》のしんを一本|三文《さんもん》で買って帰っていった。
 こんなわけだから、おなじく西鶴の俳諧に、
  年のころ雲なかくしそ手かけもの
  晦日《つごもり》までの末のかねごと(約束)
とあるように、元禄当時の上方では、月ぎめの妾もあったのだから、この道ばかりはたいして進歩していないようだ。
 これが江戸後期の川柳時代になると、何しろ庶民がとらえたお妾像だから、上品というわけにはいかない。
  ある夜のむつごと弟二本差し
 殿さま、ご寵愛《ちようあい》のあまり、ついお部屋の願いのとおり、弟の町人を士分に取りたて、めでたく二本差しの身となったという、おそまつの一席であるが、もちろん、ねだるにはタイミングが大切だ。
  鼻息を考えめかけねだるなり
 早すぎてもだめだし、おそすぎてもだめだ。殿さまだってフトコロ具合ってものはあるのだから、頭がしびれかけて、ソロバンなどはじいていられなくなった時、もはやがまんならぬという鼻息の時をはずさず、
 ——あの、もうし、うえさま。
とやれば、たいていのことは成功するものだそうである。わたしの友人の作家も、かねて目をかけていた銀座のバーのホステスをくどきおとしてホテルヘつれこんだ夜、鼻息をよまれて、乗用車を一台、闇《やみ》で買わされた、となげいていたから、相手が何十万石の殿さまだと、弟を二本差しに仕立てるぐらい、わけもないことだ。そこのところを人情話ふうにまとめた落語が、殿さまのおめかけの弟の職人が士分に取りたてられ、馬に乗る身となってまごつくおかしみがあるので、旧名を『妾馬《めかうま》』、今では『八五郎出世』と題する六代目|円生《えんしよう》が得意にしていたハナシである。

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