雲上の嬌声《きようせい》
日本が集まるとイザナギいいはじめ
新婚当時は神さまといえども無我夢中で、とくに女神の方は恥ずかしさも手伝って、オルガスムスがあったのかなかったのか、それさえわからぬ状態であったにちがいない。そこへいくと男神の方は、しょっぱなからオルガスムスに達することになっているのだから、いちはやくその極致の表現を、堂々と告《の》りたもうことになる。
「日本が一ところに寄るようだ」とは、江戸時代においてしばしば用いられた性的極致の表現だが、世界中でこれくらい男性的で雄大な表現はないだろう。なにしろ、その交じわりによって、日本の国々を産みおとされたお二人のことだから、今われわれがもらす「日本が集まる」というあの時の雄叫《おたけ》びは、イザナギノミコトが言いはじめられたのにちがいない、と庶民は考えたわけだ。いささか下品だが、ウンチクのあるかんぐりである。
さて女神の方も、だんだんおちついてこられて「はじめはいっそ恥ずかしい、こわいこわいもいつしかに」というころになると、なにしろ「言霊《ことだま》の幸《さきお》う国」、つまり言葉で幸福を願うと、かならずその言葉のとおり幸福がおとずれるといわれるお国がらのことであるから、女神といえども極致の表現はなされたろう。
しかし、なんといっても神さまのことであるから、当節の江戸の女みたいに、「死にます死にます。」などと、下品なことを口ばしられるはずがない。
あれいっそ神去りますと橋の上
けれども人情にかわりはないのだから、同じ意味のことを神さまらしく上品に、「神去ります」とおっしゃったにちがいない、とお察し申しあげたしだいである。「あれいっそ」という江戸の下町娘のコトバと、「神去ります」の対照が、なんとも愉快である。
朕《ちん》はもう崩御崩御《ほうぎよほうぎよ》とのたまえり
これは恐れおおくも、道鏡を愛したもうた孝謙《こうけん》女帝は、ミカドのことだからこうも申されたろうという、江戸庶民のかんぐりである。いくら当時不敬罪がなかったからといって、おそれ多いきわみである。