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日本人の笑い63
日期:2018-11-04 23:58  点击:472
   にたり貝
 
 
  一門は蟹《かに》と遊女に名を残し
 
 一の谷を追っぱらわれ、屋島でまたも追い討ちをかけられた平家一門の運命は、下関市の東方の壇の浦でつきることになった。一千余|艘《そう》に分乗した平家の武者のあらかたは、海底の藻《も》くずとなり、その怨霊《おんりよう》は平家蟹《へいけがに》と化した、とだれともなく言いはじめた。
 瀬戸内海でとれる平家蟹の甲羅《こうら》は、しかめっ面《つら》をした人間の顔に似ているところからのこじつけだが、いかにも庶民的な伝説だ。
 さいわい長州へ上陸することのできた官女たちは、一難去ってまた一難、生活にこまって遊女となったのが、下《しも》の関《せき》稲荷《いなり》町遊郭《ちようゆうかく》のはじまりであるという。
 関《せき》ヶ原《はら》戦後、豊臣《とよとみ》方の侍の娘たちが遊女になり、維新後もお旗本の娘が芸者になった例もあることだから、まんざら根も葉もない話ではないということになれば、
  こよのう侘《わび》しゅうはべりしと下の関
  あかねさすまで帰さぬと下の関
 何しろ官女あがりだから、落語の「たらちね」の女房と同じで、「ああらわが君《きみ》……」といった調子で、大和《やまと》言葉(内裏の女房コトバ)を使って客と口舌《くぜつ》をしたにちがいない。夜の明けるまで帰さないわョ、というところも、「あかねさすまで」といったにちがいない、ともっともな想像である。いずれにしても平家一門の男どもは海へもぐって蟹となり、女どもは陸へはい上がって遊女となって名を残した、というわけである。
  門院は赤貝にでもなるところ
 ところで、壇の浦での色っぽい方の立《たて》女形《おやま》の建礼門院は、二位の尼がまだ八歳の幼帝とともに入水《じゆすい》したのを見て、今はこうよとおぼし召され、硯《すずり》を左右のふところに入れて海にとびこんだところを、渡辺《わたなべ》の源五《げんご》がお髪《ぐし》を熊手《くまで》にかけて引きあげ、助けまいらせたということになっている。そこで、もしも門院が入水してお果てなさったら、男どもの蟹に対して、赤貝になるところであったろう、というわけだ。
 史上有名な女性の魂魄《こんぱく》が海にはいって、性器まがいの貝になったという伝説は、まだほかにもある。ご存じの方も多いと思うが、瀬戸内海は阿波《あわ》の鳴門《なると》のあたりでとれる貝に「似たり貝」というのがある。二、三年前に、この貝をアルコール漬けにしたやつを、わざわざ旅先で手に入れて小生宅まで持参してくれた親切な友人のおかげで、とっくり鑑賞することができた。それがなんともはや、色といい、形といい、大きさといい、そっくりで、しかもあるべきところにはチャアンと春草まがいのものがはえているのだから恐れいった。
 ——しかもねえきみ、こいつのとり立てを酢《す》にして食うと、コリコリしてうまいんだぜ。——わが友はいささかサディズムの傾向にあるやにみえた。
 この似たり貝こそは、晩年|四国《しこく》に落ちて窮死したという清少納言《せいしようなごん》の魂魄が、この世にとどまったというのである。江戸初期の『遠碧軒記《えんぺきけんき》』という随筆に、「阿波の撫養《むや》に清少納言の墓あり」とあるし、『西鶴名残の友』で、「昔日《そのかみ》清少納言、世に落ちて四国の山家にて哀れむなしくなりけるとなり」といっているから、伝説化する道具立てはチャンとそろっているわけだ。
 ところで似たり貝は、阿波の鳴門付近の特産かと思っていたところが、実は岩手《いわて》、青森《あおもり》の近海でもとれることを最近知った。その名も同じく似たり貝という。岩手県|久慈《くじ》市の近海でとれるやつは、大型で色も年増《としま》ふうに紫がかっており、青森県の八戸《はちのへ》辺でとれるのは、小型で娘ぶりだそうである。おまけにおかしいのは、同じ海で男性のそれにソックリの貝がとれるのだそうな。
  門院は入水《じゆすい》のほかに濡れたまい
  義経も母をされたで娘をし
 戦前派の好き者《しや》の目にはかならずふれた雅文調の春本に、壇の浦における義経と建礼門院の情交を描いたものがあった。一説に日本外史の筆者|頼山陽《らいさんよう》の作ではないかといわれるほどの達文である。
 もちろん火のない所に煙は立たない道理で、『源平盛衰記《げんぺいせいすいき》』巻四十八「女院六道めぐり」に、次のような一節がある。
  みずからは君主にまみえたてまつりて、后妃の位に備わり候いし上は、仮初《かりそめ》の褄《つま》を重ぬべしとこそ思わず候いしに、……九郎判官《くろうほうがん》に生け捕られて、心ならぬ仇名を立ちて候えば、畜生道《ちくしようどう》に言いなされたり。
 すでに鎌倉時代の史書が、義経と門院の情交を暗に指摘しているので、これを庶民が見のがすはずはない。
 門院はまず身投げして濡れ、引きあげられてからは義経と濡れたもうた、と、これはまあ川柳としては曲のない言い方で、二句目の方がいかにも川柳らしい。なにしろ義経は、その母の常盤《ときわ》御前を清盛にしてやられた腹いせに、清盛の娘の門院をやったのだ、因果はめぐる小車《おぐるま》の、というやつさ、といったしだいである。しかし、さらにまた因果はめぐって、
  門院を仕たと讒奏《ざんそう》しちらかし
 戦目付《いくさめつけ》の梶原景時《かじわらかげとき》にとって、この一件はおん大将頼朝公へのザンゲンの好材料となり、
  西海の九郎(苦労)も水の泡となり
 ついに奥州まで逃げたあげくにほろぼされてしまったのも、もとはといえば色を好んだからだという、川柳平家物語、おそまつの一席。

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