岸なく泳ぐ者
二
ことし天正三年のつい先月、五月の初めには、信長は岐阜《ぎふ》を出て、徳川家康とともに、甲山の精鋭武田勝頼《かつより》の大軍を長篠《ながしの》に破って、もう岐阜へ凱旋《がいせん》していた。
彼の兵馬は、一定の方向を持たない旋風《せんぷう》のようなものだ。きのう北越《ほくえつ》に上杉勢と相搏《あいう》っていたかと思えば、たちまち伊勢《いせ》の一揆《いつき》を討ち、また返って、江州《ごうしゆう》の浅井を屠《ほふ》り、転じて朝倉を亡ぼし、更に叡山《えいざん》へ火の手をかけているという疾風迅雷《しつぷうじんらい》ぶりである。そして抜本的に、中央の癌《がん》足利《あしかが》初世以来の幕府勢力まで悉《ことごと》く京都から追い払ってしまった彼である。
「——岐阜は遠い」
などと考えていたら大間違いの因《もと》である。
枝葉と闘わず根を抜き去る。——これも信長の戦いに見られる手口のひとつだ。過《あやま》って数年来、彼は火元の炎に水をかけず、炎の影の映《うつ》る所へばかり兵を向けてあわや奔命《ほんめい》に疲れかけようとしていた。
伊勢、江州、北陸、諸国に蜂起《ほうき》しては彼を苦しめた宗門《しゆうもん》の一揆《いつき》はたしかにそれだった。彼に亡ぼされた今川、斎藤、朝倉、佐々木、六角、浅井の諸家の残党や、亡命将軍の義昭《よしあき》をあやつる各地の反抗も、それと同じ性質のものだといえないことはない。
では、こうした炎の片影《へんえい》でなく、真に燃える力をもつ反信長の火元はいったいどこにあるか。聡明《そうめい》な彼は、すでにその所在を今日では知っている。
莫大《ばくだい》な信徒と富力と、しかも兵力さえ持っている大坂石山《いしやま》の本願寺か。
いや、その本願寺にしても、それだけの伽藍《がらん》勢力だけでは、こう何年も信長と対立し信長の統業を根底から邪《さまた》げるものとはなり得ない。一応は本願寺衆の不屈な反抗も認められるが、その背後にあって、陸路からまた海上から、彼らの物心両面に逞《たくま》しい補給を与えているものこそ、実に信長が、
(いつかは、かならず)と、心のなかで睨んでいるものにちがいなかった。それは山陰山陽十二ヵ国の富強を擁《よう》している毛利一族なることはいうまでもない。
表面、織田と毛利とは、まだ交戦状態に入っていないが、暗々裡《あんあんり》の戦闘は、すでに何年も前から行われているといっても過言でない。摂津《せつつ》から山陽方面にかけての豪族たちの抱き込み、物資の争奪、密偵の往来、また旅人を用いての流言戦だの、血をながす以外のあらゆる部面では、もうまったく戦っているのだ。もちろん相互《そうご》の国交はとうに断絶しており、関所の要害は海路まで厳密を極めている。
とりわけ両勢力の中間にある群小国家ともみなせる多くの小城の持主や地方豪族の切りくずしには、序戦のまえの予備戦としてあらゆる手段が尽されているらしいのである。たとえその中に巻込まれている一豪族でも、すぐ隣村の豪族は毛利加担《かたん》か織田の味方か、またわずか河一つ隔《へだ》てた小城の性格でも、いったいその何《いず》れに組みそうとしている肚なのか、ほとんど、表面的なうごきだけでは真《まこと》を卜《ぼく》することは出来ないような情勢にある。
たとえば、これは大藩だが、この播州御着《ごちやく》からはすぐ隣り国の浮田家《うきたけ》にしてからが、いまのところでは、毛利方と観《み》られているが果たして不変なものかどうか、密偵の情報などに依ると、甚だ疑わしいものが感じられるのだった。
そこで、こう見廻せば見廻すほど、この地方の城主たちは、まったく帰するところに迷っているというのが、まず誤りない実状だったのである。ひとりこの御着城と小寺政職《まさもと》だけのうろたえではなかった。