沐浴
四
官兵衛はこのときここで何を説いたかといえば、もちろん年来の主張の織田支持を力説したのである。天下はやがて必ず織田軍の旗によって風靡《ふうび》される。たとえ毛利家がいかに強大でも、公方《くぼう》の残存勢力を擁する三好党《みよしとう》がどんなに抗戦してみても、織田信長のまえには、到底、焼かれる燎原《りようげん》の草でしかないことを、その信念で繰返したにとどまる。
だが、それは前提であって、彼が改まってこの日いおうとしたのは、
——なぜ、そうあらねばならないかの問題だった。
「思うに、この騒暗《そうあん》の地上に、自然が信長を生れしめたのは、いわゆる天意ともいうものであって人意人工ではない。いまこの人がなければ、誰がこの抑《おさ》えてのない衆愚《しゆうぐ》と衆暴の乱脈時代を——我意と我意の際限もない同胞同士の闘争を一応ひとつものにまとめてゆけようか。そのためにはまた誰がご衰微《すいび》を極めている皇室を以てこの国に適したすがたとして、衆民が和楽してゆけるような大策へ現状の乱れを向けてゆけるだろうか。これは信長以外になす者は見当らないではないか」
そしてまた、
「信長の兵馬は、信長を主君としているものにはちがいないが、その信長は、皇室と衆民のあいだの一武臣たる位置にあることを常にわすれてはいないようだ。そうした彼の思想は父信秀の代からのもので政略や付《つ》け焼刃《やきば》ではないようだ。彼の過去にてらしてみても、今川義元をうち、美濃の斎藤を略し、浅井朝倉また彼の敵でなく、はや今日ほどな勢威《せいい》を占《し》めうれば、ふつうの人間ならもうそろそろ思いあがるべき頃だ。が彼は、勝つたびにかならずその部下をひきいて京都に入り、まず宮門に乱《らん》の平定《へいてい》を報告した後、庶民には善を施し、社寺には供養《くよう》をすすめ、道路橋梁の工事を見たり、荒れすたれた禁裡《きんり》の諸門をつくろうなど、さながら家の中心になってよく働く子が、上には親に仕え、下には弟妹のいじらしきものを慰めるような真情をつくして、それに依る四民共々のよろこびを以て自身のよろこびとしているような姿ではおざらぬか。およそ足利十数代のあいだ、また諸国の大名を見わたしても、かくの如き人がひとりでもいたろうか。毛利は強国といっても元就以来の家訓を守って、自己の領有を固守するものに過ぎず、その志は天下万民にない。三好《みよし》氏は紀伊《きい》、伊賀、阿波《あわ》、讃岐《さぬき》などに、公方《くぼう》の与力《よりき》と旧勢力をもっている点で無視できないが、これとて要するに悉《ことごと》く頭の古い過去の人々であるばかりで、世を紊《みだ》し民を塗炭《とたん》に苦しめた罪は、決して軽からぬものでおざろう。何よりはまた彼等はすべて民心の信望から見かぎられている」
と、ことばつよく断じ、
「こう観《み》てくれば、信長以外に、ご当家のご運を賭《と》し、またわれら侍の一死を託す者は他にないことは余りにも明白でありましょう。われらの感じるところ、また衆民の共感するところで、信長出でて初めて万民は曙光《しよこう》を知ったというも過言でありますまい。さきにいったような志をもって衆民の信頼をつよくつなぎ得ている者の理想が、この時代に行われないはずはありませぬ。まして天下いま他に恃《たの》む何ものとてない時代においてをやであります」
さしもの広い部屋も、この中の惰気《だき》も、また自我も争気も、しばらくは一掃されて、彼ひとりの声しかそこには聞えなかった。