丘の一族
一
姫路までは一里弱。奔馬《ほんば》の脚では一鞭《いちべん》の間であった。
ここは山陽と近畿《きんき》の咽喉《の ど》にあたる要害の地であったが、当時はまだ後に姫路城と称されたあの壮大な景観は備えていなかったのである。御着《ごちやく》の本城を防ぐための一支城であったに過ぎず、その壕塁《ごうるい》も曲輪《くるわ》造りも極めて簡単な構築で、樹木の多い丘の上に、十数年ほど前から黒田という一豪族が住居を建てて住んでいたというに過ぎない程度のものであった。
しかし、この丘の家に、いつのまにか隆々《りゆうりゆう》たる勢力と人望が集められたのは、何といっても、近年のことで、その要因は、官兵衛という総領《そうりよう》息子が、親まさりだったからといってさしつかえないようである。
とかく悪口をいいたがる世間の者は、
「——金の力もえらいものじゃ。目薬売りの浪人が、いつのまにやら地主になり、あのように大勢の召使やら馬を持つようになったことよ」
などと今になっても陰口をきく者もないではなかったが、決してそんな金力によるものでないことは、優秀な総領息子が、年を数えるごとに示して、まだ三十になったばかりの官兵衛だが、この姫路の小城も近郷に重からしめ、親の宗円《そうえん》の威徳をもいよいよ高からしめたこと寔《まこと》に一通りでないものがある。
いったい小寺の領内には、播州《ばんしゆう》の山々や僻地《へきち》の海浜《かいひん》がふくまれているため、いたるところに土豪が住み、強賊《ごうぞく》が勢力をつくり、これらの土匪《どひ》を討伐《とうばつ》していたひには、ほとんど、戦費と煩労《はんろう》に追われてしまい、ほかの治政は何もできないような乱脈さであった。
ひとり小寺氏の領内ばかりでなく、諸国どこの領土を見ても、まずこんな実態《じつたい》にあったのが当時の一般的な世相だったといってもよい。そうした世の中なればこそ、一介《いつかい》の目薬売りも、田を持ち、馬を飼い、人を養い、いつか姫路の丘に石垣を築いて、兵器と実力を蓄《たくわ》えれば、四隣の国々とまではゆかなくても、近郷の治安と秩序を握って、ここにひとつの武門を創《た》つこともできるわけであった。
加うるに、この黒田家へは、このとき天が麒麟児《きりんじ》をめぐんで、家運いよいよ隆昌《りゆうしよう》を見せた。——その官兵衛を総領に、弟小一郎、ほか二人の妹があったが、何といっても、官兵衛の才幹《さいかん》は十五、六歳からもう光っていた。
母の死後、彼はひと頃、文学になじみ、和歌などしきりに詠《よ》み習っていた。これは母方の祖父の明石正風の影響らしかったが、経書禅学《きようしよぜんがく》の師として奉じていた浄土寺の円満坊から、ある折、
(いまは花鳥風月を詠んでいるときではないでしょう。お祖父《じ い》さまのような境界のお方はべつですが、あなたはこれからいよいよ烈《はげ》しい風雲のなかに立ってゆかねばならない弱冠《じやつかん》ではありませんか。よくよくいまの時勢を天に訊いてごらんなさい)
と意見されたときから、すぱと歌道を断念して、それからは猛烈に、禅と兵学に心魂をうちこんだということである。
そうした官兵衛なので、もう二十二歳前後には近郷の沢蔵坊という賊魁《ぞつかい》を討ったり、佐用《さよう》郡の真島一族を討伐したり、ともあれ姫山の総領が、家の子をひきいて出かければ、必ず勝って帰るという信用を町の人々にも持たれるようになっていた。
黒田という丘の一家を、こうして年々強大にして行ったものは、金の力でも何でもなく、実はこの家を敵としてしきりに反抗し続けた近郷の土豪や強賊だったのである。
(黒田とは、いったい、どんな人物か)
と、御着の城主小寺政職《おでらまさもと》は、あるとき狩猟《しゆりよう》にことよせてこの丘へ立ち寄った。それが縁となって黒田宗円は以後、小寺家の被官《ひかん》として仕え、やがてまた、その子官兵衛が、父に代って、家老の要職を継ぐようになったのであった。
ほかの譜代《ふだい》にくらべ、年月こそまだ短いが、黒田父子が被官となってからは、小寺家の領内には土匪《どひ》の横行もまったく歇《や》み、失地は敵の手から回復し、領民はその徳政によく服していた。
だが、そうしてようやく内治が調《ととの》ったと思うと、こんどは国外からの圧迫がひしひしと、この一小国にも、旗幟《きし》の鮮明を促《うなが》して来た。それもここ二、三年は何とか日和《ひより》見《み》的態度で糊塗《こと》して来たが、いまや急なる風雲はもう一日もそれをゆるさなくなって来たのであった。