日语学习网
黒田如水57
日期:2018-11-16 21:29  点击:297
 平井山の秋
 
 味方の大部隊は去って、羽柴筑前守一軍をもって、いよいよ難攻不落の三木城に対し、長囲《ちようい》滞陣《たいじん》と肚をすえた平井山の陣地にも、もう初秋が訪れていた。
 山には桔梗《ききよう》が咲き、芒《すすき》が穂《ほ》を出した。
「きょうは山中鹿之介幸盛の百ヵ日にあたる。河部《かわべ》の渡しで死んだとき、彼は胸に大海の茶入れを懸《か》けていたという。あの豪骨《ごうこつ》でも、やさしい風雅《ふうが》の一面があったとみえる。こよいは秀吉がみずから彼の恨み多き義胆《ぎたん》忠魂に、一碗供《わんそな》えてなぐさめてやろうと思う。お汝《こと》らもそれにいて相伴《しようばん》いたすがいい」
 陣屋の板庇《いたびさし》から白い月がさしている。秀吉はそういいながら湯鳴《ゆな》りする釜の前にしばし畏《かしこ》まっていた。陣中でも折々は茶に集まったが、かくの如く秀吉が素直《すなお》に寂《せき》として見せたことはない。
 席には二人しかいなかった。もちろん半兵衛と官兵衛である。秀吉が鹿之介の忌日《きにち》を忘れなかったということは、二人にとっても有難い心地がした。この人のためには死も惜しくないという気持を深めさせられた。
 その晩である。
 竹中半兵衛は自身の陣所へ帰る途中、月の白い道ばたに屈み込んだまま、しばらく起ち上がらなかった。
「どう遊ばしましたか」
 供の郎党は、月より白い彼の面をのぞいて、眉を曇らせたが、やがて歩み出しながら半兵衛は、
「何の事もない」
 と、いったきりであった。
 けれどその後には、血に染んだ懐紙が捨てられてあった。喀血《かつけつ》したのである。彼はその夜から熱を発して、十日あまり陣屋のうちに寝込んでいた。
 見舞に来た秀吉は枕元で、
「そういう我慢《がまん》は、わしにとっては欣《うれ》しくない。どうか、頼むから養生《ようじよう》してくれい。それには、この戦場では、療養もできぬ。京都へ参って、よい医者にかかれ。曲直瀬《まなせ》道三に診《み》てもらえ。あれは当代の名医だ。……いま其方に死なれては、秀吉のゆくても暗うなるぞ。ぜひ京都で半年か一年ほども養生いたして来るがよい」
 叱ったり、励ましたり、また頼むがごとく、それを促《うなが》すのであった。
「勿体《もつたい》ないおことばです」
 半兵衛は涙を拭いた。官兵衛もその心のうちを察して頸を垂《た》れていた。
 鵙《もず》の啼きぬいている秋の日だった。病軍師竹中半兵衛は、死んでも離れないといっていた平井山の陣地をうしろに、ついに京都へ還って行った。秀吉と官兵衛らに見送られて——。
 一挺《ちよう》の山駕《やまかご》は、彼のために新しく作られてあった。これも秀吉の思い遣《や》りの物である。門を出て山道を降って行くその影を、秀吉も官兵衛も熱い眼で見送っていた。
「なあ官兵衛、若くしてあの大才あの博識《はくしき》。あれほどな人間を天が世に送るくらいなら、なぜ天はそれに病《やまい》などというものを持たせてこの世に生ませたのだろう。今ここを去る半兵衛の心根を思いやるとわしは堪らなくなる……」
 秀吉はそういいながら大股に陣所の内へ帰って行った。自分の顔にベソを掻《か》きかけるような痙攣《けいれん》を感じると、彼は子どものように身を隠したがるのである。
 虫の秋は深くなった。秀吉の座側は何か歯の抜けたような淋しさだった。官兵衛は努めて、半兵衛のうわさをしないことにしていた。
 果然《かぜん》、この寂寥《せきりよう》はやぶれた。更に、大きな寂寥を加える為の緊張であった。——というのは、さきに信忠に従って引揚げた軍中の一将荒木村重が、その位置する摂津《せつつ》の要地を扼《やく》して、突然、織田家に反旗をひるがえしたという早馬がこれへあったからである。
「村重が?」
「あの、荒木殿が?」
 げに測《はか》り難《がた》い人心と時代ではある——と、主従して愕然《がくぜん》と面を見合わせたことであったが、それからわずか十日も経ないうちに、更にまた秀吉と官兵衛を愕《おどろ》かしめた飛報がこれへ届いた。
「——御着《ごちやく》の小寺政職《おでらまさもと》も、摂津の荒木村重に誘われて、ともに寝返りを約し、毛利方へ向って、援軍を要請《ようせい》した形跡《けいせき》があります。十中の八、九まで、この儀は確実と思われます」
 という間諜《かんちよう》の報らせが入った日、姫路の黒田宗円からも、それと同じ早打ちが来た。もう疑う余地もない出来事である。

分享到:

顶部
07/05 03:35