陣門快晴
四
「太兵衛。……ご出座か」
戸板の上から小声で官兵衛がたずねた。まわりの者が一斉に平伏したので察したらしかった。
すぐ側にいた母里太兵衛は、地についていた額をこころもち擡《もた》げて、
「信長様と拝されまする。ご床几のかたわらにお立ち遊ばしておられます」
と、ささやいた。
官兵衛は急にむくむくと身をうごかし始めた。——が、例の左の足がどうにも動かし得ない容子である。太兵衛は、主人の気もちを測《はか》りかねていた。左足の負傷が激痛し出したのかとも思われ、信長の出座と聞いて感情を激発したものかとも危ぶまれ、われを忘れて、主人の顔へわが顔をすり寄せた。
「……いかが遊ばしたのですか」
信長のところまでは聞えないほど低い声で訊いた。すると官兵衛は、その細い腕を藤蔓《ふじづる》のように太兵衛の肩へ絡ませて、
「わしを起こせ。坐らせてくれ。……そして仆れぬように、わしの体を後ろから抱いておれ」
と、命じた。
信長は床几についていった。
「官兵衛、起きるにはおよばぬ、そのままでよい。——ゆるす、ゆるす、そのままでおれ」
しかし官兵衛は何とまわりの者がなだめても肯《き》かないのである。ついに太兵衛と善助とが左右から極めて徐々に抱き起した。うごかすと今朝もなお左足の関節から夥しい血が厚ぼったい繃帯をやぶって噴き出した。こんな枯木のような体のどこにこれほどな血の量があるかと怪しまれる程だった。
やっと信長のほうへ向って坐り得た官兵衛は、二つの穴のような眼から信長の姿を仰いで、同時に、がくと肋骨《あばらぼね》の下を折って、両手をつかえた。
「生きてお目にかかり得ようとは思いませんでしたが、測《はか》らずも、お変りなきおすがたを拝し……官兵衛のよろこび、これに過ぎるものはございませぬ。……昨年わたくしの浅智《せんち》より、みずから難を求め、久しくご心配をおかけいたしました。どうかおゆるしおき下さいますように」
官兵衛がいい終らぬうちに信長は床几を離れて歩いて来た。そして彼のすぐ前へ片膝をついた。
また、その片手をのばして、官兵衛の尖っている肩の骨を撫でた。
「官兵衛。今日となっては、信長はいうことばがない。わしは貴様を怒ったのだ。貴様の才を惜しむの余りであったろう。口実を構えて、伊丹城に入り、荒木に加担したものと疑っていた。その後そちが伊丹にありやなしやも不明だったが、疑いは解けずにいた。……つい昨夜までは」
「みなわたくしの浅慮《せんりよ》より求めた禍《わざわ》いというに尽きまする。申しわけございませぬ」
「いや、その詫びは、信長からいいたい。ゆるせ」
「もったいない」
「ゆるせよ、官兵衛」
「もう仰せられますな。身のおき場がございませぬ」
「智者《ちしや》の貴様も智に過《あやま》ることがあるように、信長こんどは過った。そちからの質子の松千代は、この一月、信長が命じて首を討たせた。……うらむか、わしを」
「何の、おうらみはございませぬ」
「いとしかろうに。嫡子《ちやくし》であればなお更に」
「もとより人の親として子には、代ってやりたかった程の不愍《ふびん》を覚えまする……とはいえ、このただならぬ世では」
「世の中のせいと思うか」
「左様には存じませぬ」
「信長のせいとも思わず世のせいとも思わず、誰のせいと思う」
「たれのせいとも思い寄るところはありませんが、これも天下統一の大業に積まれてゆく小石の一つであったよと、折にふれてご一顧でも給わるならば、これに勝《まさ》る慰めはございませぬ」
そのとき床几わきに控えていた前田又四郎が湯浅甚助に呼ばれてついと幕《とばり》の外へ出て行った。何たる多事な日か、この朝、またここの陣門には信長にとっても官兵衛にとっても、更に更に驚くべき者が、駒をつないで取次を求めていたのであった。