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平の将門03
日期:2018-11-20 23:08  点击:371
 自然戯
 
 
 北武蔵から、秩父《ちちぶ》、上野《こうずけ》へわたる長い連山の影が、落日の果てに、紫ばんで、暮れてゆく。
 小次郎は、まだ、丘にいた。
 曠野《こうや》は、春の三月だった。
 土もあらく、風もあらく、水の質もあらく、それと等しく、人間もあらあらとして、野生のままな坂東の天地であったが、さすがに、春の夕ぐれは、余りにともいいたいほど、何事もない。なんのうごき一つもない。
 目に見えないほどずつ、陽が沈み、雲の色相《しきそう》が、変ってゆくだけだ。
「御子っ。そんな所に、何して、ござらッしゃる。はよう、おいでなされ、身どもと、一しょに」
 また、誰か、呼びに来た。
 いずれ、馬舎《うまや》の馬丁か、浦人の小者かであろうと思い、小次郎は、
「おらあ、行かぬぞ。飯も食いとうない。こん夜は、馬と寝る」
 と、ふり向きもせず、いった。
 すると、下の影は、丘へ駈け上ッてきた。——手こずらす童よと、口叱言をいうのが聞え、同時に、小次郎の腕は、抜けるほど、力づよく、引ッ張られていた。
「御子っ、なにをいい召さるッ。そんな悪たいばかり申さるる故、叔父御たちからも、忌《い》まるるのじゃ。大掾さまの、召さるるに、来んという答えが、あろうかやい」
「うるせえッ」と小次郎は、突ッ放して、「そうなら、そうと吐《ぬ》かせば、おらだって、歩ばぬと、いうかやい」
 ぷんぷんと、面《つら》ふくらせて、先に、歩き出した。しかし、嫌で嫌で堪らない気がするとみえ、眼は、ぼたぼた、涙をたらしていた。
 その晩、彼は、大叔父の腹心らしい家臣から、一つの急用を、命じられた。大叔父の国香や、小い叔父たちが、奥で酒もりしているらしい間にである。
「明日《あした》、柵の厩《うまや》の栗毛《くりげ》を曳いて、横山ノ牧へ、行てくだされ。こちらの牝馬《めすうま》の栗毛へ、横山の名馬と評判のたかい牡馬《おすうま》のタネを、もろうて来るのじゃ。タネ付け料も、絹や稲などで、先に払うてあるし、仲介《なかだ》ちの者から、この一月、とうに話もついておること。いまは、春蚕《はるご》を飼うので、手もない時故、御子ひとりで、行てくだされ。行けぬことは、あるまいがの」
 小次郎はむしろ、よろこんだ。幾日かの解放をゆるされたように、いそいそして、母屋から遠くの屋《おく》で、独りぼッち、眠った。
 すると、真夜中に、蝦夷萩が忍んできて、彼を、ゆり起した。
 奴婢長屋は、曲輪の遠い隅ッこで、晩には、逃げないように、空壕《からぼり》の橋は、外《はず》される。それに高い柵もあるのに、どうして来たのかと、小次郎は、目をまろくした。
「御子は、あした、横山ノ牧へ、行くんでしょう。そしたら、途中の武蔵野で、殺されますよ。わたしは、叔父御さまたちが、密談しているのを、床下《ゆかした》で聞いていた……」
 彼女は、一心に、小次郎を想っている。小次郎は、かの女が告げた恐ろしさより、べつなものに襲われた。すぐ取って喰べてしまいたいような衝動に駆られ、アイヌ族の特有な梨の花みたいな肌をすぐ頭にえがいた。
「……ね。ですから、ここは出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
 蝦夷萩は、それだけ告げると、暗い床むしろを、後退《あとずさ》りに、出て行きかけた。
 ——と、小次郎の鼻に、彼女が日ごろ髪につけている猪油《いのあぶら》のにおいが、ぷうんと触れてきた。彼の影は、それを嗅ぐと、動物的に、跳びついて、香《にお》うものの焦点へ、ごしごし顔をこすりつけた。蝦夷萩は、鼻腔《びこう》からひくい呻《うめ》きに似た息を発し、身を仰向《あおむ》けに転ばして、嬉々《きき》と、十四の少年が、なすままに、まかせていた。
 まだ、人間たちの間には、人間の自覚すら、ほとんど、稀薄な時代であったから、わずかに、夫婦の制度とか、妾《めかけ》の認知とかいう——本能と愛憎と専有欲を基とした、ごく単純な社会約束はあっても、男女生活の、多岐多角なすがたには、なんの思考も持たれてはいなかった。——恋愛はしても、恋愛の自覚はないのだ。原始的なしきたりのまま、肉の意志のまま、振舞うことが、人間として出来る何でもない行為の一つというに過ぎない。
 都人《みやこびと》の風習は、上下一般に、早婚だった。男は十二、三歳から十五、六歳までに、女は九歳から十二、三歳といえばもう嫁いだ。放ッておいても、小さい彼氏や彼女たちは、童戯のように、肉体の交じわりも、卒業してしまうからである。それは、大人のまねでもあった。男女の大人たちは、その事をそう秘密に、不自由に、恟々《おどおど》として、行ってはいない。いくらでも、童女童子たちは、それを見ることができる。見ればまねするし、まねすれば、喜悦であるし、習性づいてくれば、肉体も性情も、自然の状態に従ってくる。
 宮廷の人々から、一般の都人さえそうだから、この坂東地方などは、原始人時代の男女間から、まだいくらも自覚の男女に近づいてはいない。掠奪結婚も、折々あるし、恋愛争奪戦争に、家人奴僕を武装させ、鏃《やじり》を射つくし、矛《ほこ》に血を飛沫《し ぶ》かす場合も稀ではない。
 筑波《つくば》の歌垣のように、夜もすがらの神前《かみまえ》で、かがりも焚かず、他の人妻と他の人夫《ひとづま》が、闇の香を、まさぐり合う祭りに似た風習など、この豊田郡、相馬郡の辺りにも、広く行われていた。
 蝦夷萩は、十六だったから、奴隷仲間で、ただ措《お》かれているはずはないし、二ツ下の小次郎とて、決して、彼女との馬糧倉が、初めてだったわけではない。

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