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平の将門09
日期:2018-11-20 23:11  点击:302
 白と黒の地界
 
 
 天智、天武、持統、聖武天皇などの歴世を通じて、仏教の興隆このかた、全国に創建された寺院の数はたいへんなものである。財も労も精も、国力の——それはみな下層民の汗と税によるものが——限りなく投じられてきたといっても過言ではない。
 だが、その中枢の信仰者である王朝貴族たちは、自らの政治や私的生活の中に、その仏教を急激に腐敗堕落させる経路ばかりを追ってきた。藤原閥のここ一世紀余にわたる栄華と専横は、その歴史でもある。
 それでも、大化の革新以後、藤原百川《ももかわ》や良継《よしつぐ》たちの権臣が朝に立って、しきりに、土地改革を断行したり、制度の適正や、王道政治の長所を計ったりしていた短い期間は、どうにか、日本の曙光《しよこう》みたいな清新さが、庶民の色にも見えたが、やがて彼等の専横がつづき、皇室、後宮、みな藤原氏の血をいれて私にうごき、中央の官衙《かんが》から地方官の主なる職まで、その系類でない者は、ほとんど、衣冠《いかん》にありつけない時代がここ十年も続いた結果は——いまや世はあやしげなる両面社会を当然に持つにいたり——たまたま、相馬の小次郎が遭遇したような、柳桜の綾をなす文化の都と、百鬼夜行の闇の世とが、ひとつ地上に、どっちも、厳として、実在するような状態になった。
 そして、そのどっちかに拠《よ》って生きている二つの群は、白と黒のように、極めて明瞭な生態別をもっていた。上流貴族階級と、貧民浮浪者層との、ふた色でしかなかった。
 中流階級という層は、その頃まだ、日本には見あたらなかった。それらしき知性人や、無産文化人の極く少数が、いることはいても、それとてみな、ボロ衣冠をまとい、藤氏《とうし》の権力下にある朝堂《ちようどう》の八省に、名ばかりの出仕をするか、摂関、大臣家などに禄仕《ろくし》して、ほそぼそ生活を求めるしか、社会は、彼等を生かす機能も余地も持たなかった。社会構成に層を成すほどな中流人士とてはなかったのである。
 ——だから、相馬の小次郎が、入京の第一日に接触した者はみな、その一方の黒い層に住む人間たちだったことは、もう再言するまでもなかろう。ただ、それにしても、暗夜の寺域に、鬼火のごとき火光をかこんで、更《ふ》くるも意とせず、勝手気ままな囈言《たわごと》を投げあっているこれらの男共は、いったい何を生命に求め、何を職としているかという疑問になると、これは、小次郎がなお多くの年月を、実際に、この都会において生活してみた上でなければ、そう簡単に、解るというまでの、理解に達するまでにはゆかない。

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09/30 07:16