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平の将門36
日期:2018-11-24 22:32  点击:260
 水草記
 
 
 霧もふかく、夜も明けきれていないので、柳の木々は、雫《しずく》をもち、大河の水もまだ眠たげで、江口の岸に、波騒《なみざ》いも立てていない。
「……どこ? 生れた国は」
 小次郎は、女とならんで、散りかける柳の水際を、歩いていた。自分たちの宿もまだ寝ているし、同じような屋造りの遊女宿も、商い家も、いまが夜半のように、ひそまっている暁だった。
「……東国ですの」
 女は、答えた。年は、十八という。——そして、睫毛の黒さや、小麦色の粗《あら》い皮膚。笑うと、虫の蝕《く》っている味噌ッ歯の見える唇もとまでが、蝦夷萩と、そっくりである。やはり、東国の蝦夷の血をもっていたのかと、小次郎は、愛着に、燃えるような眼をして、見直した。
「じゃあ、売られて来たんだね。——東国から」
「ええ。……おっ母さんが」
「あ。そうか。おまえは、何も知らない、子どものうちにか」
 名は——と、たずねると、
「草笛といいます……」と、小声だった。
 小次郎は、率直に、おれも、坂東の生れだから、何だか、おまえが好きだ。また、きっと、通って来る——といったりした。
 草笛も、商売のうそや、おざなりではないらしく、私も、何となく、あなたが好きです、きっと、忘れないで……と、ながし眼に、いった。
 幼稚な客に出会って、彼女も、幼稚な娘のときめきを、真実、共に持ったものかもしれない。恋は、幼稚なほど、当人たちには、楽しい筈である。
 あたりの、明るくなるにつれ、ちらほら、舟もうごき、人影も見えだして来た。二人は、もとの宿の方へ、帰りかけて来た。
 すると、一軒の水亭から、やはり一人の遊女に送られて、舟に乗りかけている都人らしい客があった。男女は、岸と、舟の上で、後朝の惜しみを、くり返していたが、やがて、客の舟は河中に、女は、岸に立ち残った。
「あ。……?」
 小次郎と、その客と、思わず、視線をあわせてしまった。——それは、従兄の常平太貞盛に、ちがいない。
 貞盛も、小次郎の姿を、しかと、見たように思われる。小次郎は、理由もなく、胸さわぎを、覚えた。
「御存知なのですか」
 草笛にきかれて、小次郎は、
「うム、仲の悪い、従兄なんだ。……あの男、たびたび、ここへ来るのかい」
「淡路《あわじ》さんのお客さまです。月に、二度か、三度ぐらいは、きっと、見えているようですよ」
 草笛は、小次郎が、貞盛の従兄ときいて、なお、信頼をましたようであった。
 宿へもどると、純友を始め、ゆうべの仲間は、みな起きていた。不死人は、しきりに、もう一日、ここで遊ぼうという説を主張したが、それでは、浪華から四国への船便に、また七日も待たねばならぬ。いずれまた、上洛するから——と、純友たちは、ここで旅装を調えた上、やがて、二艘の船に乗り別れ、大河のうえで、西と東へ、袂を分かった。
 遊女たちも皆、船の上に、日傘をさし並べて、淀の流れの中ほどまで、一行を送りに出た。その中の、草笛の顔一ツだけしか、小次郎の眼には、残らなかった。

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