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平の将門52
日期:2018-11-24 22:41  点击:270
 虫籠の女人
 
 
 頑丈な曲輪造りの家も、一瞬、家鳴りに似た物音と、獣じみた人間の呶号に、揺すぶられた。
 ——が。一瞬にそれは、ハタとやんだ。
 そのあとの、凄愴《せいそう》なしじまの下に、将門のうめきが聞えた。いや、断続してしゃくり泣く彼の異様な声だった。また、その周りに、眼や唇を、血だらけにしたり、袖や袴《はかま》を、ほころばしている幾人が——まっ蒼な顔を持ったまま、しばらく、大きな息を、肩でつきあっていた。
「……ち、畜生め。……甥だとおもって、よいほどにしておけば」
 良正は、やっと、口がきけて来たように、呟いた。そして、大勢で滅茶滅茶に撲ったり蹴ったりして、半殺しの目にあわせた将門の姿を、そのもがきを、いつまで、にらみつけていた。
「立てっ。さ。もう一ぺん立って、今みたいな口をきいてみろ。——将門っ。どうした。立てないのか」
 良正、良兼、はじめ、人々はようやく、あたりの杯盤の粉々になっているのや、仆れている壁代《かべしろ》などに気がついて——自分の鼻血を袖で拭いたりした。
 将門は、身を揉んで、まだ、哭《な》きむせんでいた。
「たわけ者が」
 良兼は、家人《けにん》へ、いいつけた。
「せっかくの酒もりも、だいなしだ。つまみ出してくれい。この甥を」
 物音に駈け集まっていた家人郎党は、十人をこえていた。将門を、かつぎかけた。よほど、荒っぽく、袋叩きにされたとみえ、将門は、立ちも得ない。無念を、もがくだけだった。
「まてまて、まだ」
 良正は、彼をかついで、歩き出す群れをとめて——
「将門。わすれるなよ。きょうのところは、ゆるして帰すが、これが、青空の下だと、おそらく、生命《いのち》はなかったはずだ。……きのうも、河原畑に、家人の景久が建てておいた高札を、ひき抜いて、毛野川へ抛《ほう》り捨てたとか。——あの一条でも、ほんとは、豊田の館へ、わが家の郎党が、押し襲《よ》せてゆく理由はある。襲せたがさいご、何百騎という荒武者だ、この叔父共が、止せというても、止まらぬぞ。……よいか。この後とも、無分別はいましめろ。つまらぬまねして、下の弟共に、泣きを見せぬがいい」
 と、四肢の自由を失っている彼の耳もとへいってきかせた。
 将門も、何か、死力をふるって、喚こうとしたが、とたんに、長い廊の橋をこえて、戸外《そ と》の広前へ、かつぎ出されていた。
「どうする……?」と、そこで、郎党たちの相談だったが、やがて、面倒だとばかり、館の門を出た所の崖際《がけぎわ》から、下へ向って、将門を、抛り捨てた。
 崖は急だが、巨《おお》きな杉が、密生しているので、彼の体は、すぐ途中の木の根に、ひっかかった。
「……うごいている。死にはしない」
 上で、郎党たちが、いって去ったのが、将門に、聞えていた。が、意識のそのほかの何ものもとらえ得ない。空《くう》をさぐっているような気はするが、その手にも知覚がない。
 一つの木の根から次の木の根へズルズルと転がった。痛いと、思い、首をもたげることができた。
「……うごいてはだめ。うごいてはいけません。下は、流れですから」
 たれか、どこかで、いっている。まったく、時間の経過を無知覚でいたらしい。真っ赤な夕空が、黒杉の梢のすきまを鮮らかにしている。夕露が、肌に沁む。
「いま、行きますからね……。もがかないで」
 声が近い。いや近づいてくる。将門は、とろんとした眼を上へ向けた。
 一所懸命に、少しずつ、生命がけの冒険に臨んででもいるように、上から降りてくる者がある。昼見た、袿衣の人である。良兼の郎党が、玉虫どのとよんだあの女性にちがいない。
「あ……?」愕然とし、おもわず、将門は下から、
「あぶない」と、さけんだ。
 さけぶまでに、意識がはっきりすると、全身の痛みも、熱をおびて、彼を、唸《うめ》かせた。大きく、何度も唸《うな》った。唸ると、楽である。
 玉虫は、ついにそばまで、降りて来た。彼女は、彼に気力をかして、ここから上がるようにすすめたが、だめだった。といって、彼女の嫋《なよ》やかな腕では、将門の体を、どうしようもない。
「つれて来た梨丸という小冠者が、正門の石段の下で、待っています。その梨丸に、知らせて下さい」
 将門は、やっといい得た。彼女は、もいちど、袿衣の裳《も》が、綻《ほころ》ぶのもいとわず、崖をのぼって行った。そして、やがて梨丸をつれて来た。空の茜はうすれて、夕星が見え出していた。
 ようやく、将門を、連れ上げて、梨丸は、主人のからだを、背にかけた。高い、暗い、石だん道を、玉虫は、途中までついて来ながら、いたわった。そして、その傷ましい主従の影が、麓の夕闇と一つになるまで見送っていた。
 ——ふと、人の気はいを感じて、彼女は、石だんを、上へ、戻った。ところが、そこには、彼女にとって、ひどく気まずい人物が渋面をつくって佇んでいた。もちろん、彼女を所有している肉体の主人である。その良兼は、仏教信者でもあるが、また、妻以外に幾人もの女を抱えては、この山荘の局に飼っておくのが、無上な道楽でもある人物だった。
 玉虫は、かつて彼が、官途の公用で、上洛したとき、左京の常平太貞盛の案内で、江口の遊里にかよい、ついに、莫大な物代と交易して、東国へつれ帰った女なのである。
 家人から聞くと、昼も、その玉虫の局に、将門が、話しこんでいたというし、今も、局を覗いてみると、玉虫の姿が見えない。そして、ここのこの有様なのである。
 将門も、都にいたのだし、その将門のすがたを、江口の遊里で、見かけたこともあるというはなしを——かつて、貞盛から、聞いてもいたので、良兼は、初老の男の駆られやすい、ひがみと嫉妬に、むらっと、燃えた。しかし、それをすぐ口に出して、安直な気やすめを急ぐような彼でもなかった。
「何しているのだ、こんな所で。……また、良正と二人して、そなたの琵琶でも聞こうと思うて、さっきから探させていたのに」
「…………」
 玉虫も、くすぐったそうに、笑うだけで、すみませんとも、いいはしない。彼女には充分彼女の自信みたいなものがあり、おいやならいつでも都へ帰ります、というのが口ぐせなのである。
「おいっ。どこへ行くのだ、どこへ」
 さっさと、彼女が、ひとりして、先に、歩き出したので、良兼が、追いかけるように、いうと、玉虫は、投げやりに、うしろへ答えた。
「だって、女には、お化粧がありますのよ。こんな恰好で琵琶をひけの、また、舞えのといっても、ごむりでしょう」
 良兼は、にが笑いしたが、彼女が、局に入るまで、彼女の虫籠である住居の小壺にうしろから尾いて行った。

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