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平の将門59
日期:2018-11-24 22:45  点击:342
 黙然人
 
 
 ある期間、自分だけに誓って、黙々と馬鹿みたいになって働く——ということは、真面目な人物がよく思い立つことである。
 一種の自虐《じぎやく》だが、当人には、人の窺い知れない自悦《じえつ》もある。
 懊悩《おうのう》のまま年は暮れたが、年もあらたまって、承平《しようへい》二年の正月を迎えるとともに、将門は、翻然《ほんぜん》と考えた。それに似た誓いを独り胸にたたんだ。克己《こつき》である。馬鹿になろう、馬鹿になろう、である。そして、今にみろ、という目標をたてた。
「これは、気が楽になった」
 将門は、自分を、危機から救ったと思った。馬鹿でない自分が、馬鹿みたいになって、その実、孜々《しし》と、目的に邁往《まいおう》してゆく。——やがて五年か十年後には、馬鹿馬鹿とばかり思われていた自分が、はっきりと、馬鹿でない実績を見せて、あの叔父共を、見返してやる。
「おもしろい。黙然人《もくねんじん》になることだ。もう一ぺん、左大臣家の車舎人となったと思えば、なんでもない」
 彼は、世間に耳をふさいだ。家人や奴婢が、外から何を聞いて来て告げ口しようと、笑っていることに決めた。
 開拓しさえすれば、新たな農田《のうでん》は、無限に獲《え》られた。山林を伐り、沼を埋め、治水に励み、そのとし一年だけでも、豊田郷の面積と農産は、面目を、あらためた。
 折ふし、承平二年から三年にかけては、全国的な大飢饉《ききん》が、日本の緯度を、見舞っていた。
 秋には、寒冷がつづき、翌年五月には、杏花《きようか》の候というのに、各地で降霜を見、その夏にはまた度かさなる颱風の襲来と、洪水の出現だった。
 そのため、二年目の秋には、地方の調貢《ちようこう》(税物)が、まるっきり都へ送られなかった。
 天皇は、詔《みことのり》して、常の御膳部の量を、四分ノ一に減じられた。
(——更ニ、服御《フクギヨ》ノ常膳《ジヨウゼン》ヲ、四分ノ一ニ減ゼヨ)
 という、倹約のために諸卿へ範《はん》を示された詔は、一年に二度まで、発せられた程である。
 おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起《ほうき》が、頻々として、聞えた。
 内海の海賊は、都の官庫へ輸送されてくる調貢船を狙っては、襲った。
「伊予の純友だ。……純友のしわざだ」
 と、それも、都の不安に、輪をかけた。
 穀倉院の在庫高は、洛内の窮民に、施粥《せがゆ》の炊き出しをするだけでも、日々、気がひけるほど減ってくる。大炊寮《おおいりよう》の廩院《りんいん》では、財務官たちが、青くなって、全国の庄家《しようけ》(荘園役所)にたいし、私田、公田《こうでん》の徴税と輸送とを、督促するのに、眼のいろを変えていた。
 当然、各地とも、徴物使《ちようもつし》(徴税吏)の取立てが、苛烈を極めた。
 抗するにも、訴えるにも、何ら、法の庇護をもたないこの時代の無力の民は、どんな苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》にも服すしかない。膏血《こうけつ》をしぼっても、出さねばならない。
 平安朝の民の、その頃の民謡に。
 
挿《さ》し櫛《ぐし》は
十余《とをま》り七つ
ありしかど
武生《たふ》ノ掾《じよう》の
朝《あした》に取り、夜《よ》さり取り、
取りしかば
挿し櫛もなし
 
 わずかな税物の代りに、髪飾りすら、地方の掾の下吏に持って行かれたと嘆いている土民の妻の顔が目に見えるような謡《うた》である。そのうらみを、後々まで、地方の子等は、無心に、謡っていたものとみえる。
 が、櫛はおろか、自分たちの露命をつなぐ、何物すらなくなってしまうと、彼らは、最後の手段として、小屋を捨て、郷を捨て、一家離散して、思い思いに、自分の身を、奴隷に、落した。
 寺院であれ、官家であれ、豪族の家人であれ、どこでも、力のある所へ、奴婢奴僕として、奉公するのである。そういう、無籍の民には、税は負わせられない。つまり、身をすてて、税の負担から遁《のが》れるのであった。
 そういう逃散《ちようさん》の流民《るみん》が、将門の豊田郷にも、おびただしく、入りこんで来た。
 将門は、追わなかった。むしろ、幸いとして、
「食えない者は、おれと働け、働くところに、飢饉はない」
 と、かかえ込んだ。そのため、館の大家族形態は、膨脹《ぼうちよう》するし、郷民は殖える一方であったが、急開拓の火田法《かでんほう》なども用いて、およそ二年半、死にもの狂いに、結束して働いた。
 世は、承平の大飢饉といわれた程なのに、豊田郷は、この期間に、かえって、富を増した。
 朝廷から任ぜられていた相馬御厨からの御料の納物《のうもつ》は、春秋とも、きちんと都へ送っていたし、租税も完納できた。
 また、さっそく、種つけし始めた牧の牝馬《ひんば》は、みな仔を生み、明けて三歳の春駒や、二歳、当歳仔《とうさいご》が、大結ノ牧に、群れ遊び、むかしに近い景観を呈し始めてもいる。
 いや、もっと、大きな力を加えたことは、隣郡の結城や猿島の小豪族が、帝系《ていけい》桓武《かんむ》の末流という魅力にひかれ、また実際に、彼の努力やら、豊田郷の勃興を見て、将門の館へ、何かと、誼《よし》みを通じてきたことである。
 それにたいしても、彼は、
「うむ、一つになるか。よかろう。小さく、こせこせ、茂り合うよりは、一門となって、力をむすび、深く根を張って、大木となろう」
 来る者は、拒まず、誰とでも、杯をくみ交わした。彼にはどこか、そんな風に慕われる親分肌な人がらがあったとみえる。由来、関東八州は、後世まで、ややもすると、杯によって義を約す侠徒の風習を生じたのも、遠く、平安の世の坂東曠野時代、この辺の原始制度の中で強く生きるために自然に仕組まれた族党結束の名残といえないこともない。

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