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平の将門66
日期:2018-11-24 22:48  点击:242
 幸福な百日
 
 
 桔梗は、四日の事を聞いて、睫毛《まつげ》の翳《かげ》に、憂わしそうな眸を沈めた。新妻らしく、まだ、良人にも、どこか気がねをたたえている。
「いらっしゃらなければ、いけないのでしょうか……」
 俯し目になって、それだけをいい、どこか泛《う》かない姿態《し な》であった。
 明日となった。
 桔梗は、また、
「どうしても、おいでにならなければいけませんの……?」
 おとといと、同じようにいった。
 将門は、ちょっと、眉を硬《こわ》めて——
「そんな事より、新しい狩衣《かりぎぬ》は、縫わしておいたのか。袴も」
「ええ……。御装束は、みな、調うていますけれど」
「なぜ、そんな淋しい顔をするのか。——桔梗、よせよ、そんな悲しそうに、睫毛をふるわせるのは。おれまでが、悲しくなって、何だか、行きたくなくなってしまう」
「おねがいですから……」
 桔梗は、抱かれた良人の手の甲へ、濡れた睫毛を、ひたと、すりつけた。
「——いらっしゃらないで下さい。四日の御法事には」
「どうしてか。なぜ」
「でも……私、心配でなりません。いいえ、御舎弟たちも、寄り寄り、お案じ申して、私へ、強《た》って、お止めしてくれと仰っしゃいます」
「将頼がか?」
「いいえ。将平様も、将文様も」
「新治の大宝寺というので、敵地へ行くように案じるのだろうが、常陸源氏の息子たちは、この法要には関りはない。羽鳥や水守の叔父共は見えるだろうが、おれさえ、何事にも怺《こら》えていれば事はすむ。——それも、余人の年忌ならばだが、亡父良持のと申されては、どう嫌な人間が集まっていても、行かぬわけにはゆかぬ」
「将頼様の御代参ではいけませんか」
「総領のおれがいるのに。……殊には、ほんとなら、法要はおれの名をもって営まねばならないところだ。……な、そうであろうが」
「え、え」
「この二、三年は、おれはただ、家運の挽回に、無我夢中だった。起きれば、田野へ出て、奴僕と共に、土にまみれ、疲れた身を、横たえると……桔梗、おまえの夢ばかりみていたよ。……夢が、昼の働きを励まし、昼のつかれも、夜の夢を楽しみに、ここ三年は暮していた」
「……私も。……私もです」
「二人の夢が、こう結ばれた。その二月《きさらぎ》の夜からの幸福さ。……おれは今、毎日、いっぱいなんだよ、その幸福で」
「ですから、この愛しい日を、いつまでも続けてゆけるように、じっと守っていたいのです」
「もとよりだ。……ただ、そんな幸福に、ここ百日も、恵まれていたものだから、まったく、亡父の十七年の年忌など、頭のうちに、思い出されもしなかったのだ。不孝といわれても仕方がないが、しかし、死んだ父上は、知っていてくれるよ。……ゆるして下さっているに違いない」
「…………」
「おれは、母とは、顔も知らないうちに別れ、父も少年の日に死なれてしもうた。こういう館《たち》住居《ずまい》では、その父へも、甘える日はなくて別れた。死んでから甘えてもいいだろうと思っているのだ。な、桔梗」
「ですから、明日の御法要へも」
「行くなというのか。さあ、今となっては、ちと遅い。行くと、返書もしてあるのに、その日になって、おれが姿を見せなかったら、臆病風《おくびようかぜ》にふかれたぞと、満座で笑いどよめくだろう。亡父《ち ち》良持《よしもち》の恥だ。おれは坂東平氏の総領だ。行かいでか」
 桔梗はもう止めることばを失った。また、そういう凜乎《りんこ》たる良人の男性らしさにも惹《ひ》かれた。恐いような魅力に恍惚となっている自分にはっと気がついた。そしてその魅力ある腕のなかに、その夜も、幸福な夜を、ついそのままに明かしてしまった。

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