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平の将門76
日期:2018-11-24 22:52  点击:278
 繭の中に
 
 
 この晩春ほど、妻の桔梗が、良人《おつと》の眼に美しく見えていることはない。
 すこやかな初産《ういざん》を見て後、一しお血色を浄化され、ちょうどその年齢や肉体も女の開花を完全に示してきた風情である。爪のさきから眸《ひとみ》の奥にまで産後美の熟《う》れを透《す》きとおるほど象徴している新妻だった。
「わたくしは倖せです。あなたは愛してくださるし……。けれどあんまり幸福で、こんな幸福な日が、いつまでつづくかと思って」
 彼女はまったく幸福の繭《まゆ》の中にいた。しかし、豊田の館の奥ふかい所にも、何となく、世間のうわさは聴えてくる。殊には、これまでの数年が、たえず彼女の心を脅《おびや》かしていた毎日であったから、繭の中に守られていても、ややもすれば、風を恐がる花のように顫《おのの》くのだった。
「そんな取越し苦労はしないがいい。どうも、おまえはちと苦労性すぎるよ」
 将門は、強《し》いて、笑って、
「そういう不安は、いい替えれば、おれが余りに頼りにならない良人だと、おまえがいっていることにもなるぞ。なぜ、おれの腕につかまって生きてゆくのがそう不安なのか」
「もったいない。私は満足しきっています。——見てください。母の私の腕に、こんなに、安心しきって抱かれているこの乳のみ子のように……です」
「おお。よく寝ているね」
「やがて、あなたの、お世嗣《よつぎ》ですのよ」
「おかしなもんだな。おれもいつか、父となったか」
「……ですから、どうぞもう、お心を練《ね》って、世間がどう騒ごうと、なにを企んで来ようと、お辛くても、じっと、堪忍してくださいましね」
「そうか。おまえはまた、羽鳥の叔父や貞盛などが、何かやり出して来やしないか——とそれを心配しているのだな」
「折々、いやな噂も聞きますので」
「聞けば聞き腹で、おれも時には、むかつくが、しかし、奴等が何を策動しようと、先頃の上洛により、おれは正しく、太政官の法廷で、訴訟に勝っているのだからな。中央の政府がすでにおれの正当を認め、法律に照らして——叔父共が横領をくわだてた領田の地券は、これを一切、将門に返せ——と判決を下しているのだ。奴らとしても、これ以上、どうにもなるまい」
「けれど、人の心は量《はか》れません。それでなお、叔父御さま達が遺産を返してよこさなくても、もう決してお腹を立てて下さいますな。私は、何も要らないと思います。これ以上には」
「そうだ、これ以上にはな」
 将門も、共に、思う。妻のことばは、聡明であり、また生命を愛する者の声だと思う。
 事実、今ほど幸福に盈《み》たされている時はない。訴訟に勝って、彼が、郷土に帰って以来、彼の人望は、郷党たちから、いやが上にも高められている。
(良持殿のあとを嗣《つ》いで、良持殿にもまさる坂東平氏の棟梁《とうりよう》よ。ゆく末、東国の諸州を締めくくる人物は、あなたを措いてはありませんぞ)
 四方の小地主や地侍は、招かずして、豊田の門に馬を繋《つな》ぎに来、そろそろ、将門の耳には、甘い世辞や、彼をもちあげる阿《おもね》りが、集まりかけているのである。
 しかし、すぐいい気になる彼でもない。彼は、それらの者のおだてには乗るまいとして、
(いや、とても、おれは父の良持どのには、似もつかない、不肖の子だ。おれはおれの馬鹿をよく知っているのさ。けれど、正直者が虐《しいた》げられて、悪智恵のある奴が、威張りちらしたり、巨富を積んで、ぜいたくするのを、免《ゆる》してはおけないからな。そういう勢力とは、戦うよ。あくまで戦って、坂東の天地を、ほんとの平和にして、住もうじゃないか。それだけの事さ、おれのたてまえは)
 と、誰にも一様にいうのである。しかし、その単純で開け放しな人がらが、かえって、魅力でもあるように、四隣の客は、よけいに絶えない。
 そうした四隣の客はまた、かならず、豊田の館の内部から、領下一般の勤勉と和楽が稔らせている繁昌を見て帰った。
 養蚕も農作も、水産も林業も、この地方の進歩はじつに目ざましい。市は諸方に立ち、交通もよくなり、農家の一つ一つを覗いても、飢えているような顔はない。祭りといえば、どこの地方より、賑うし、酔って、土民が唄うのを聞けば、唄にまで、将門の徳を、頌《たた》えている。
 将門自身も、よい妻を得、よい子を生み、いまは何の不足もないのだ。——だから彼はこれ以上、むりな搾取《さくしゆ》を領下の百姓に求めはしない。
 また彼には、少年の頃、自分を熱愛してくれた女奴《めのやつこ》の蝦夷萩の死が、いつも思い出されるので、奴隷《どれい》長屋に飼っている男女のたくさんな使用人にも、常にあたたかい主人だった。
「あ。わかったよ。何が起っても、堪忍しよう。だからもうそんな取越し苦労はおよし」
 子どもの寝顔をのぞきに来たついでに、彼は、妻の唇にも、唇を以て、愛撫を与えた。
 日に、何度となく、こんなふうに、館の北の殿をたずねて、繭の中の平和と愛情に浸りに来るのが、このところ数ヵ月の、彼の唯一な楽しみであった。
 けれど、この館の平和も、春から秋ぐちまでの、わずか半年ほどの間でしかなかった。桔梗の予感は、不幸にもあたっていた。
 

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