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平の将門84
日期:2018-11-24 22:56  点击:263
 富士山噴火
 
 
 いちど、姿をかくした三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼勢が、筑波へ帰ると、ただちにまた、豊田の焦土へ、帰って来た。
 さきの敗北で、味方は半分以下にも、減っていたが、これが諸地方に聞えると、かえって、以前の数に倍するほどな人数が、山川草木まで、焼けいぶっている豊田郡へ集まって来た。
「ひとまず、石井ノ柵をひろげて、石井にたてこもろう」
 石井は、豊田の隣郡で、猿島郡の内になる。
 将門もやがて、ここに帰って来た。
 この石井時代から、彼の性格、彼の人間観は、たしかに一変を来している。その原因が、この秋の湖上の悲劇にあることはいうまでもない。
 ぽかんと、馬鹿みたいに、惚《ほう》けた顔つきを、うつろにしていることがあるかと思うと、些細《ささい》なことにも、激怒したり、また哄笑《こうしよう》を発したりした。
「兄者人は、あの日から、まだすこし変ですぞ」
 と、将武は、上の将頼や将平にささやいた。
 弟たちには、思いやり深い長兄であったが、この頃は、どうかすると、その弟たちすら、頭ごなしに、どなりつける事がある。そして、ともすると、
「飲もう」と、いい出すのであった。酒量は、以前のようなものではない。大酔を欲しながら、いくら飲んでも、酔えないふうであった。
「怒っても、怒っても、おれはまだ、ほんとに、捨て身で怒ったことはない。それはおれに、生命《いのち》を惜しませる愛しい者があったからだ。……が今は、何もない。堪忍ぶくろもズタズタだ。今日までは、受け身に廻って戦っていたが、これからは、おれから戦いを布告してやる。——歯を以て歯に酬う——」
 彼は、それを、何度もいった。
 気のせいか、将門の相貌までが、前とは、違って来たように、誰にも思えた。らんとした光をもち、しかも、あたたかさが、失われている。眸《め》だけでなく、眉が、けわしく、唇は、何ものかを強く結び、桔梗に見せていたあの微笑や、わが子をあやしていたあの和やかな父の笑くぼは、もう永遠に、彼の面上に回《かえ》って来ないものであった。
 冬の初め。ああ、冬の初め。
 彼は、初霜を見ると、思い出した。
 桔梗と、別れて、落ちるときに、
(さびしくても、しばらくの耐《こら》えだよ。初霜の降りるまでには、きっと、迎えに来るからな)
 そういって慰めたあの最後のことばを——である。将門は、石井の営兵を数えた。部下は二千をこえている。以後、まったく積極的に鍛えてきた精鋭である。
「よし、備えはできた。妻子のとむらい合戦ぞ」
 将門は、兵千八百人をつれて、筑波へ立った。なお六、七百の兵を、石井の営に残して、弟たちには、留守をたのんだ。
 羽鳥の良兼は、これを知ると、
「そういう鉾先《ほこさき》は、かわすに限る」
 と、一族をつれ、逸早《いちはや》く、筑波をこえて、弓袋山へ逃げ籠ってしまった。
「ええ、存分に戦って、夏以来の思いをそそいでやろうとしたのに」
 将門は、羽鳥へ来てみて、無念がった。あらゆる手段をつくして、良兼をおびき出そうとしたが、さきは老獪《ろうかい》である。決して、こういう場合は、相手にならない。
 ぜひなく、彼は、それが目的ではないが、豊田郷の館や自分の領民に与えられた通りな、狼藉、放火、掠奪を、良兼の領下に振舞って還って来た。まさに、歯を以て歯に酬いたのである。
 こうして、その年は、暮れかけた。承平七年も、十一月にはいった。坂東平野は、赤城颪《あかぎおろ》しや、那須《なす》の雪風に、冬が翔《か》けめぐる朝夕となった。
 すると、突として、朝廷から、官符《かんぷ》をもって“将門追捕ノ令”が関東諸国へたいして、発せられた。その内容は、
(平小次郎将門事、徒党を狩り、暴を奮《ふる》い、故なく、官田私園《かんでんしえん》に立ち入り、良民を焚害《ふんがい》し、国倉を掠奪し、人を殺すこと無数。——すなわち、同族良兼、源護《まもる》、右馬允《うまのすけ》貞盛、ならびに、公雅《きみまさ》、公連《きみつら》、秦清文《はたのきよぶみ》等に協力して、暴徒を鎮圧、首魁将門を捕え、これを、朝《ちよう》にさしのぼすべきものなり)
 と、いうのである。
 ところが、諸国の郡司や押領使は、この官符をうけながら、いっこう朝命を奉じる様子はなかった。中央の命なるもの自体が、それほどまでに、地方には行われなかった証拠でもあるが、また一面、
「どうして、将門に、追捕が発せられて、良兼やその他には、何の科《とが》もないのか。——まして、この春の訴訟では、将門が、勝訴となって、帰国しているのに?」
 という疑いも、多分にあり、お互いが、隣国の出方をまず見ているという態度であった。
 官符の通達された範囲は、武蔵、安房、上総、常陸、下野《しもつけ》の国々である。ところが、偶然にも、同じその年十一月末に、富士山の大噴火が起った。そのため、ちょうど官符をうけた諸地の地殻が、幾回となく、地震《な え》のように鳴動した。天地いちめん、ふしぎな微蛍光をおびた晦冥《かいめい》につつまれ、雪かとまごう降灰が、幾日となく降りつづいた。
 すぐ翌年は、天慶《てんぎよう》元年(改元)である。いわゆる天慶ノ乱の、それが前兆であったよと、後にはみな、思い合せた事であった。

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