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平の将門89
日期:2018-11-24 22:58  点击:286
 相搏ち相傷つく
 
 
 筑波の麓の柵に、同族を糾合して、羽鳥の良兼は、石井ノ柵の将門と、この冬中、対峙《たいじ》していた。
「いっこう消息もないが、一体、貞盛はどうしたか?」
 彼が待つものは、諸国の援兵である。——貞盛の画策に依って発せられた官符の効果だった。
 さきには、将門の復讐に会って、弓袋山へ逃げこみ、からくも彼の襲撃から遁れたが、帰ってみると、羽鳥の館も、附近一帯の民家から屯倉まで、一夜に、焼野原と化している。
 加うるに、この前後、彼が恃《たの》みとしていた水守の良正が、病死してしまった。これも大きな精神的打撃だった。
「官符は降ったが、諸国とも、兵は出さないし、貞盛は陣頭に立ちもしない。——こうして、この身一人が、将門の目の仇《かたき》に立ってしまった。……考えてみると、当初の発頭人たる大掾国香は死に、源護も逝き、その子の扶、隆、繁も相次いで戦歿し、今また良正も病死した。……生き残った者の災難とはいえ、こんな大争いを自分一個にうけ継いで、一体、どうなることだろう」
 良兼も、もう、いい老年《と し》である。
 それに、深い堅固な信仰ではないにしても、元々《もともと》、多少仏教に帰依して、この地方に寺の一つも建立《こんりゆう》したことのある男だけに、さすが無常を観じて、そう考えずにもいられなかった。
「貞盛こそ、怪しからぬ。——本来、誰よりも、貞盛自身が、矢表に立つべきではないか」
 その不合理にも思い至って、ようやく、右馬允貞盛の狡《ず》る賢い立ち廻り方にも、気がついていた。
 しかし、今にして、こう気づいても、すでに遅い。
 彼の部下は、将門の豊田郷に侵入して、穀倉、御厨、門前町、民家にいたるまでを焼き払い、ついには、将門が自分の生命ともしている最愛の妻子までを捜し出して、みなごろしにしてしまっている。——すべてそれは良兼の所業として、将門から終生の恨みをうけているのだ。今さら、骨肉の血みどろと、領土の荒し合いが厭《いや》になっても、将門の方で、このまま矛《ほこ》を収めるはずはない。
 しかも、弓袋山から里へ出て来た彼の眷族や伴類たちは、将門が石井へひき揚げたあとで、歯噛みをしあい、
「見ておれ、こんどは、こっちから、ひと泡ふかせてやるから」
 と、再挙、おさおさ怠りはない。
 げにも、歯ヲ以テ歯ニ酬ウ——の報復をくり返せば、人間の野獣化と残忍な手段は、とどまるところを知らなくなる。復讐に対して、復讐を返し、その復讐にまた復讐を思うのである。
 ここに。
 将門方の走り下部《しもべ》に、子春丸という童《わらべ》上がりの郎党がいた。
 もと、水守附近の、百姓の小伜である。
 良兼の家人景久が、この子春丸を誘惑して、利を食らわせ、石井ノ柵を内偵させた。
「柵は、手薄です。大した兵力はありません。ちょうど、年暮《く れ》の三十日には、炭倉へ千俵の炭を送り入れますから、その時、馬子や百姓の中に交じって、柵の内へ筑波の兵をお入れになれば、内と外との両攻めに会わせて、難なく、ぶち破ることができましょう」
 子春丸は、欲に目がくらんで、羽鳥方に内通し、ついに、こんな計略の手先を働くことになった。
 彼の奇策は用いられた。
 為に、その事の行われた夕方、石井ノ柵は、炭倉から火を発し、同時に、内から内応する者と、外から奇襲した筑波勢とに囲まれて、まったく、一時は、危急に陥ちかけた。
 しかし、将門は、その年の夏から秋へかけてのような脚気患者ではなかった。もう彼の健康は、恢復《かいふく》していたし、かつは妻子を失い、豊田の本拠を失ってから、一念、鬼のごとき復讐に燃えていた。
「ござんなれ、良兼」
 という意気である。
 慌てはしたが、たちどころに、営中の郎党から兄弟たちも団結して、それに当った。奮戦力闘、攻め寄る敵を殲滅《せんめつ》して、かえって、良兼の筑波勢に、手痛い損害を与えて、見事、追い返してしまったのである。
「裏切り者は、子春丸です」
 彼をよく知る仲間の梨丸が、その後ですぐ将門に訴えた。
「幼少の時から、眼をかけてくれていたのに、憎い童め」
 将門は、弟の将平にいいつけて、ただちに、彼を引っ捕え、首を打って、羽鳥の良兼へ、わざと、送り届けてやった。
 子春丸には、老いたる母があった。羽鳥ノ柵へ、その首を貰いに来て、良兼の前で、首を抱いて慟哭《どうこく》した。
「わしの伜を、このようにしたのは誰じゃ。誰が、わしの子を……わしの子を! ……」と、老母は、泣き沈んでいるうちに、突然、発狂したらしく、わが子の首のもとどりをつかんで、おそろしい形相をしながら立ちよろめくと、良兼へ向って、
「おまえじゃろ。おまえにちがいない。わしの子を、元のようにして返せ!」
 と、いきなり、抱いていたわが子の首を、抛《ほう》りつけた。その首が、良兼の胸にぶつかった。そして、彼の膝の上に、どすんと、重たく落ちて坐りこんだ。
 良兼は、その晩から発熱した。
 ついに正月中も、床を上げられなかった。
「……癒《なお》ったら、出家したい」
 そんな事をいい出したのも、気の弱りであろう。二月に入ると、病はなお重り、彼も良正のあとを追って逝くかとさえ思われた。
「この上は、どうしても、右馬允どの(貞盛)を表面に立てねばならぬ。自体、あのお人が、妙に、蔭にばかり隠れているので、四隣の国々も、連合して来ないのだ」
 良兼にも、いい息子がある。
 下野《しもつけの》介《すけ》公雅《きみまさ》、安房《あ わ》の庄司公連《きみつら》などだ。——それと、子息ではないが、安房の要吏に、秦清文《はたのきよぶみ》などと有力な味方もいた。家人景久、常行《つねゆき》、昌忠《まさただ》などの重臣も加えて、協議の末、俄に四方へ使いを派して、貞盛の居所を探しまわった。

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