秀郷起つ
「うム……。むむ……。なるほど」
秀郷は、いちいち頷いてみせる。肚のうちでは、貞盛の弁舌ぶりを、よくしゃべる男だわいと、べつな意味していた。
「だがのう、右馬殿(貞盛のこと)——年を老《と》ると、何をするのも、懶《ものう》くての。……これが若い頃なら、一旗挙げるによい潮《しお》と、血もわこうが、秀郷には、もうとんと名利の欲もないのじゃよ」
「……が、乱賊将門の悪業ぶりは、お聞き及びでもございましょうに」
「知っている。……しかし、なにも将門だけが悪人でもあるまい。あんたの前だが、常陸の大掾国香どのといい、羽鳥の良兼、水守の良正など、どれもこれも相当なお人じゃよ」
「それは……」貞盛は、赤面した。貞盛自身にも、後ろめたいものが多分にある。秀郷の細い眼に、眼皺の中から、それを見すかされているような気がするのだった。
「何分、多年にわたるもつれなので、お聞き苦しい事も数々お耳に入っておりましょうが——詮ずるところ、近年、将門は思い上がって、近隣の領土を奪い、また、不平の輩《ともがら》を門に集め、その旧主の領へ攻め入る口実とするばかりか、彼の左右には、南海の賊で、純友と気脈を通じ合っている者もおるとか聞いております。——明らかに、天下を窺う野望があるに違いありません」
「……かも、知れんなあ」
「さすれば、押領使《おうりようし》たる御職務からも」
「わしが起つのは当然だといわるるのか」
「ま。理屈になっては、失礼に存じますが」
「いや、それは、ほんとじゃよ。……だが、朝廷にせよ、太政大臣家にせよ、こんな騒ぎになると、すぐ忠誠をもち出すが、一体、わしの官位はどうだ。何十年、一介の押領使のままで、捨ておかれて来たことか。年々、貢《みつぎ》はさしあげても、絶えて、恩爵の命などうけたこともない」
「いや、ごもっともです。しかし、もし将門平定の後は、必ず、こんどこそは、中央でも、すておかれますまい」
「それがさ……。勲功勲功と、匂わせておきながら、血をながして、さて、乱が鎮《しず》まったとなると、けろりと、忘れ去るのが、公卿たちの前例じゃよ。ばかな話さ」
「貞盛が、こう罷り出て、御出馬を仰ぐからには、誓って、左様なことはないように致しまする」
「ふム……。あんたが、誓うというのか」
「誓紙をさしあげても」
「おう、誓紙とあれば、受けようか。——そして、秀郷を総帥《そうすい》に立て、三軍の指揮を委すというなら、出向いてもよいが、さもなくて、ただのお手伝いなら、まあ、ごめん蒙《こうむ》りたいものだ」
実際に貞盛が誓紙を入れたかどうかは不明である。しかし、それ程な礼をとって懇請したことには違いない。秀郷は、相手にさんざん気を揉ませておいてから、やっと「うん……」と承諾したのだった。
永年の間、下野一帯の治安、警察、徴税の監察などに当って、秀郷一族がこの地方に培《つちか》って来た勢力は、いよいよ彼が将門征伐に起つとなった時、初めて表面に現れた。
四千騎の兵が、田沼に糾合され、武庫を開いて、鏃《やじり》をみがき、刃を研いだ。
けれど、その行動はまだ極秘のうちに行われていた。あくまで用意ぶかい秀郷は、なお田原の居館を出ず、ただ密偵を派して、将門の以後の行動をさぐり、周到な情勢判断だけを握って、ひそと、出撃の機会をうかがっていた。