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平の将門114
日期:2018-11-24 23:16  点击:318
 楽 土
 
 
 大宝八幡の地域とか、宮前町の戸数や概況が、どんな程度の土地であったかは、今では、想像に拠るほかはない。
 地理的にいえば。
 真壁、結城、新治と、三郡の境にあたっている。現今の小貝川をへだてて、筑波山麓の石田ノ庄(以前、大掾国香の邸宅地)があり、またすこし東南の街道には、大串(以前、源護《まもる》一家)があった。
 こう見てくると、この辺が、数郡の中心をなす国庁の所在地であったことが窺われる。また、かつては源護一族や、大掾国香のような豪族を始め、多くの府官の邸宅、屯倉、民家なども軒を並べていたにちがいない。そうした大部落と大部落とが、数里のあいだに接し合っていた。そして聚落《じゆらく》の殷盛《いんせい》な炊煙が朝夕に立ち昇っていたものと思われる。
 こういう郷里に、国分寺時代の創建にかかる大宝八幡があるのは不自然ではない。境内も広かったであろう。大宝沼の水が、社前の木立の間から眺められ、楼門の外には、門前町の賑わいが見られ、いずこの郷《さと》にもあるように、ここにも酒亭や遊女が住んでいた。また、緋《ひ》の袴《はかま》、白絹をまとい、髪をすべらかして、面を白く粧った怪しげな巫女《み こ》たちも、社家や町の辻に、ちらちら姿を見せていたに相違ない。——とにかく、坂東特有な土くさい新開地的な文化と、神祭的な色彩と、そして附近の官衙に住む支配族の取りすました雰囲気とが、ごみごみと、人里の臭いと騒音を醸しあっていたものといっていい。
 ここへ。
 戦捷《せんしよう》の誇りに昂ぶりきった数千の兵馬が、こみ入って来たのである。
 しかも、時は、正月でもあったし、大宝八幡を中心として、おそらく未曾有《みぞう》な混雑と活況が、この土地を沸きかえしたことであろう。どう分宿しても、夜営しても、収まりきれないほどだったろうし、夜は、酒や女を漁る将兵の影が、うす暗い、しかし、俄に激増した人家の灯を、あちこち覗き歩いて、夜もすがら、怪しい嬌笑や、悲鳴に似た悪ふざけや、酔っぱらいの濁《だ》み歌などが、寒さも知らずに沸いていたかと思われる。
 大串や石田ノ庄の豪家の邸は、これまでの戦いで、ほとんど、瓦礫《がれき》と化し去っている。将門は、大宝八幡の社家を宿営とし、さて、新年宴会をかねた戦捷祝賀の大饗には、
「ひとつ、常総の諸氏が、あっと驚くように、盛大にやろうではないか」
 と、彼らしい豪放さで、左右の者に計った。そして、彼の弟たちを始め、帷幕の興世王、玄明、不死人などの輩も、
「——新たに東《とう》八ヵ国を、お館の一手に、掌管し給う政令始めの祝典でもありまする。坂東八州の人民に、こくごとく、業を休ませ、貧しき者には、あまねく施し、富みたる者には、五穀を献じさせ、万民楽土《ばんみんらくど》のすがたを、眼にも見せるように、未曾有の祭典を営ませましょう」
 と、各、奉行を承って、その準備にとりかかった。

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