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平の将門116
日期:2018-11-24 23:17  点击:256
 さびしき人
 
 
「なんと、これほどな大典と盛宴は、大宝八幡はもとより、この土地開けて以来、初めてのことだろう。——いや、こう上から下まで、一堂に会したことも、諸郡の百姓が、群集した例も、かつて、坂東八ヵ国になかったことだ。めでたいではないか。じつにめでたい春だ」
 興世王は、もう赤面《あかづら》の舞楽面《ぶがくめん》みたいになって、しきりに、泰平を謳歌していた。
 すると、藤原玄明だの、藤原不死人だの、将門の股肱を以て任じている一連の首脳部たちも、
「めでたい。万歳」
 と、何度も、杯を高く上げたりして、
「しかし、ほんとの事をいうと、これでもまだ、何だか、祝い足らんな。もっと、何か、わんわと、沸かしてもよかった」
 などと、呟いた。
 将頼や、将平、将文なども側にいて、
「それは、奉行役の諸公にすれば、いくら盛大に運んでも、多少、不足はあろうが、ま、これほどにゆけば」
「ところが、ちと、淋しいことがあるので」
 玄明が、将門の弟たちに対して、なおいった。
「——というのは、百姓万民、また神前の式事、昼夜の神楽なども、あのとおり賑々と、箪食壺漿《たんしこしよう》の歓びに沸きたってはおるが、かんじんな相馬の大殿《おおとの》将門君《ぎみ》が、なんと、ややもすれば、お淋しそうな、お顔つきではあるまいか。……しきりと、御酒は参られておるらしいが、自分は、それが気になってならぬ」
「あれは、兄のもちまえですよ」
 と、将頼は、あっさりいった。
「——酔わねば、どこか、うつろな影があるし、酔えば酔うで、淋しげなお顔の彫《ほ》りを濃《こ》くしてゆく。お若いときは、ああでもなかったが、先年、陸閑岸の入江で、桔梗どのを亡くされ、ひとりの和子《わこ》をも死なせたでしょう。……たしかに、あの頃からの変り方です。まあ、兄の癖ですな。お気にかけることはない」
「ですから、われわれ共が談合して、豊田のお館から、草笛やらそのほか、お気に入りの女性も招いておき、またなお、お目にとまる美女もあらばと思って——八州の内から選りすぐった美姫も何人か、お側に侍らせておきましたのに」
「そのためでしたか。あんなに、女性がたくさん来ていたのは」と、将頼は、兄の将門の座を振り仰いで、「折角の配慮だったが、しかしそれは無駄であろう。兄上にとっては返らぬ愚痴であっても、悟りの悪い未練と笑われても、桔梗どのでなければ、いけないのだ。たとえ、桔梗どのより美しい女性でも、桔梗どのでなくては駄目なのだ」
「そうでしょうか。はて、そんな男というものがあるだろうか」
「あっても、なくても、兄上は、そういうお人だ。だから、お酔いになると、なお、心の寂しみが、滲《にじ》み出てくる。その滲みをお顔から酔い消すには、まだまだよほど召上がらなければ……」
 すると、さっきから、黙々と、杯をかさねていた藤原不死人が、
「やあ、はなしが、ちと理になった。第一、この辺の座がいけない。われらからして、浮かねばいかん。御舎弟方も、まじまじと、畏《かしこ》まっておられずに、すこしお過ごしあれ、お過ごしあれ」
 と、妓たちをさし招いて、杯を、改めさせた。
 ここばかりではない。歓声酔語は、あちこちに沸騰している。酒気は、満堂に漲《みなぎ》り、誰の顔にも、すぐ燃えそうな脂がてかてかし出した。羯鼓《かつこ》を打つ、笛を吹く、鉢をたたきちらす。そろそろ、酒戦場風景である。——この頃になって、将門も、ようやく、眸の中に、虹をあらわし、
「たれか舞え、舞わぬか、陽気に」
 と、わめき出した。
 こんなに大陽気なのに、将門はなお、陽気に陽気にと、不足らしくいっていた。肌の悪気《さむけ》が、強欲に布を纏《まと》いたがるように、寂しさを打ち消すものが欲しかった。
 忘れかねる桔梗の面影やら、死んだ愛児のことばかりでなく、もうひとつ、彼の心には、孤独な怯《おび》えが潜んでいた。
 それは、およそ彼の表面の言行とは、正反対な、小心さで、人知れず、くよくよしているものだった。——後悔、反省、中央への憂い、弟共への未来の心配など、すべて、愚痴といってよい種類の凡情と、愚直ともいえるほどな、持ちまえの正直さから来るものだった。——それをかりに彼の良心とよぶならば、彼の良心は、こんな時、酒漬けにされる蝮《まむし》のようにもがいて、日頃よりも意地悪く、彼の胸に噛みついているのであった。
 それゆえに彼は、十一月の末以来、常陸へ攻め入り、官衙穀倉を焼き払い、貞盛、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を容れ、軍の威容を、数十倍にもして、ここに凱旋しながらも——またこの大祝典を挙行しながらも——それを悔いる気もちのほうがしきりであった。戦っては悔い、勝っては悔い、八ヵ国の官民に、万歳を以て迎えられるや、いよいよ、人知れず、後悔の蝮《まむし》に、腸《はらわた》を噛みちらされていた。

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