森の巫女
誰よりも、飲んでいるように見えて、じつは、誰よりも酔っていない男がいた。つねに、将門の気色や、また満座の雰囲気に、ひそかな注意を怠らずにいる藤原不死人だった。
「おい、おい、玄明。こら、玄明。おぬし、きょうの大役をひとつ、忘れておりはしないか」
「なんだ、不死人。いきなり、おれの腕くびなどをとらえて。これ、離せ」
「おれは、酔うた。……だが、おぬしはまだ、酩酊してはおるまいが」
「呂律を、はっきり申せ。何が、何だと」
「わからぬか。いや、忘れ惚けたのか、この、老いぼれは」
「老いぼれとは」
「まあ、怒り給うな。おんめでたき吉日ではないか。——なあ、興世王どの」と、不死人は、両手で両方の者に、絡《から》みついた。
「これは、いかん」興世王は、酒豪である。性根は、たしかだ。「——玄明どの。不死人が、くだくだ申しておるのは、それ、三名して、昨夜ひそかに仕組んでおいたあの神降《かんくだ》りの宴《うたげ》遊戯《あそび》を、なぜ早く演《や》らぬかと、催促しているのではないか。のう、そうだろう、不死人」
「そうだ、その事よ。何たるうつけ者ぞや、玄明は」
「や。なるほど」玄明も、そういわれて、急に、思い出した顔つきである。大仰に、頭を掻いた。
「まこと、酔いにまぎれて、うっかりしておったよ。……だが、せっかく、仕組んだ宴遊戯の筋書ではあるが、こう満座が酔いみだれてしもうては、ちと遅いな。まあ、やめておくか」
「ばかをいえ、ばかな事を。——祝宴はこれからだ。いままでは、大饗《だいきよう》のほんの前酒盛《まえざかもり》と申すもの」
「だが、おぬしも、興世王どのも、その酩酊ぶりでは」
「なんの、おれは、酔わぬ。どこに、酔うているか。さあ、演《や》れい。おれもおれの役割は、しゃんと、勤めるぞ」
「演《や》れというても、かんじんな、巫女《み こ》の森比女《もりひめ》が見つからぬわ。はて、どこにおるやら」
「森比女は、かしこに、人と戯れておる。それ、立ち給え、そして筋書通り、演《や》らせ給え」
不死人は、玄明の尻を、押し上げた。
玄明は、よろめき、よろめき、酒間を泳ぎ渡った。そして、武将たちをあいてに、杯を持って、何か、おしゃべりしていた森の巫女という女を横から拉《らつ》して、橋廊下を大股に、社家の住居へと、渡って行った。
興世王と、不死人とは、それを見届けると、
「はははは。あはははは。連れて行ったわ、行きおったわ。どれ、それでは、こっちも、こうしてはおられぬぞ」
二人も起って、こっそり、橋廊下の彼方の建物の内へかくれた。
社家の住居は、大混雑であった。母屋も釜屋も、料理人やら饗膳の支度に立ち働く男女で足のふみ場もない有様だ。その騒ぎをよそに、さきの玄明と森の巫女も、また後から来た興世王と不死人も、小部屋にはいりこんで、神楽殿の伶人《れいじん》たちを呼びにやったり、巫女を集めて来たり、そして自分たちも、しきりに演技の扮装を凝らしている様子であった。
「よいか。そろそろ」
「よかろう。さきに出て、榊払《さかきばら》いをやり給え。それを合図に、天楽《てんがく》を奏し、天女の舞楽を見せ、つづいて、森の巫女が、神降りを演る段になるのだから」
「では……」と、小部屋の帳《とばり》を払って、玄明が、先に、橋廊下から、おごそかに、
「しいッ……。静まれ、ひそまれい」
と、警蹕《けいひつ》の声を発しながら、酒席の中央に、立ち現われた。
玄明は、冠《かんむり》をかぶり、笏《しやく》を、装束の襟にさし、両手に、榊を捧げている。面には、何か、白い粉や青隈《あおぐま》を塗り、付け髯《ひげ》であろう、胸の辺まで、白髯を垂れていた。たれの眼にも、玄明とは、わからない。
「おや。何を演るのか」
「八幡の神職か」
「いや、ほんものの神主にしては、すこしおかしい。誰かの、酒興だろう。何か、戯《ざ》れ事を、始めるつもりだろう」
満座の顔が、玄明の方を見た。彼は、いよいよ、しかつめらしく、何か、祝詞《のりと》のような事を、いい始めた。おかしいような、おかしくもないような声が、くつくつ流れる。
颯《さ》っ、颯っ、颯っ、——と、榊が、風を鳴らした。彼の祝詞が、一だんと、声を高める。
すると、物々しい雅楽が、一せいに吹奏され出した。笙だの、ひちりきだの、笛だの、胡弓だの、竪琴だの、竪笛だの、大鼓《おおつづみ》だのあらゆる高級な楽器が、田舎伶人のあやしげな感覚によって、交響楽を奏《かな》で出したものである。本来は、粛然たる趣のある雅楽のはずだが、酒興の乱痴気を沸かせるだけの目的であるから、呂《りよ》も律《りつ》も譜《ふ》もあったものではない。宛《えん》として、神楽調である。
ところへ、また、どたどたと、橋廊下を走り渡って来た役者がある。一方は、背に箙《えびら》を負い、弓をもち、左大臣の扮装をした興世王である。もう一人は、不死人で、これも、〓《おいかけ》を付けた冠に、右大臣の装束をつけ、太刀を佩いて、裳《も》を長く曳いていた。
そして、二人は、裳と裳を、曳き合って、
「……ああら、ああら、ふしぎや、奇瑞《きずい》やな」
と、唱歌しながら、
「ひんがしの、空の曠野《ひろの》を、ながむれば——むらさきの、雲はたなびき——春野の駒か、霞むは旗か、つわものばらの、盈《み》ち満《み》つところ……」
と、眼の眩《まわ》るほど、舞い連れ、舞いつづけ、
「おお。あれは……」と、仰山に、鑽仰《さんぎよう》の所作《しよさ》をよろしく演じて、「——まさしく、八幡大菩薩」と、ひれ伏した。
鈴の音が、堂を揺《ゆ》すぶった。たくさんな鈴の音の数ほど、天女に扮した巫女が現われ、綾羅《りようら》の袂や裳をひるがえしながら、大勢の頭の上へ、五色の紙蓮華を、撒き降らした。
そして、風のように、天女たちは姿をかくし去ったが、たったひとり、あとに、森の巫女だけが、立ち残っていた。それが、趣向の眼目とみえ、彼女は、高貴な神の使わし女《め》のような化粧と扮装をし、笏《しやく》を胸にあてて、眼をとじたまま、息をしているのか否かも分らないほど、肉感のない形相をしていた。——よく神降りをやる巫女が、いちど悶絶《もんぜつ》して、それから、うわ言のように、神のことばをしゃべり出す——あのときの凄味《すごみ》をもった顔なのである。