泥んこ余興
森の巫女の姿と、そしてその顔を見たものは、誰もが、酒の気をさまして、一瞬、しいんと、満堂、水を打ったような鬼気にとらわれてしまった。
迷信は、都の貴族ばかりにあった病弊ではない。未開土にはまたもっと素朴な原始教そのままの祟りとか、禁厭《ものい》みとか、仏罰神威などが、盲信されていた。
これは、たれかが演出させた余興である、茶番狂言にすぎないのだ——とは、満座のすべては知っていたが、森の巫女の魔芸は、そう知りぬいている人々をも、ひっそりさせてしまったのである。
彼女はまた、こういう魔芸にかけては、神《しん》に入るの妙技を持っていたにちがいない。かすかに、体の線や黒髪の端《はし》に、波のようなけいれんを描き、まったく、人々の魂魄を自分の唇元に吸いよせたと思うと、天性の美しい音声に、金鈴のような威をもたせて、やおら、こう、神の託宣《たくせん》を告げたものである。
「——こはこれ、われこそは、八幡大菩薩の御使にて候うぞや。朕《ちん》が位を、蔭子《いんし》将門に授く。左大臣正二位菅原朝臣《すがわらのあそん》の霊魂に托して表せん。それ、八幡大菩薩は、八万の軍をもって、新皇将門を、助成あらん。……須《すべか》らく三十二相の音楽を以て、これを迎え奉れ」
どういう心理やら分らない。けれど、演技者に溶けこんで自分も一しょに演技する心理は、酔っぱらいにはよくある事である。——さっきから失神していたように平べッたく身を伏せていた左大臣、右大臣が、しいッというと、満座の酔っぱらいが、一せいに頭を下げた。将門も彼女を再拝した。——そしてその奇妙な一瞬が、すべての人間の頭脳を、風のように掠め去ったとたんに、誰ともなく、わっと、喝采のあらしを捲き起し、つづいて、
「万歳っ」
と、どなった者があったかと思うと、負けない気で、また、何者かが、
「新皇、万歳っ」と、さけび、もう次には、「わが君、万歳」と杯をもって、起ち上がる者があったり——「相馬の御子は、もともと、正しい帝血をひいておられるのだ。帝位をとなえても、何のふしぎがあろう。相馬の新皇、万歳」などと、演説する者が現われたり、いちど、毛穴から内に潜んでいた酒気が、反動的に、爆発したかたちで、その狂態と、乱酔の旋風は、いつやむとも見えない有頂天をつつんでいた。
さて、それからの悪ふざけであった。
将門の座を、高御座《たかみくら》に擬し、天皇の拝をまねて、叙位除目《じよいじもく》の奏請をやる。
興世王や、玄明などが、ちょうどよく、衣冠束帯をしていたので、これが執奏《しつそう》となって、
「宣旨——」
などと、とりすまし、
「舎弟、平朝臣将頼を、下野守に叙せらる。御厨別当《みくりやのべつとう》経明の子多治員経《かずつね》を上野守に。——文屋好立《ふんやのよしたつ》を安房守に。まった、平の将文を、相模守に任ぜられる」
などと、出放題なことをいうのが、いちいち拍手を呼び、爆笑を起し、将門までが手を打って、興じぬいている様子なので、彼らは、いよいよ図に乗っていた。
「右大臣。王城はどうする。新皇が即位されながら、王城の地も定まらないでは」
「いや、王城は、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
「やよ、左右の大臣。納言、参議を始め、文武百官、六弁八史の叙目は、到底、一日には任じきれぬ。したが、かんじんな内印外印《ないいんげいん》の玉璽《ぎよくじ》は、鋳《い》てあるのか」
「たった今、八幡大菩薩の神告があったばかりだ。まだ、そこまでは手がとどかん。それに、玉璽には、古文を正し、鋳印には、寸法の故実も考えねば」
「わははは。もっともらしい事をいうわ。左大臣も、右大臣も、それらしい。したが、暦日博士には、誰がなるか」
「さあ、暦日博士は、ちょっと、見つかるまいぞ」
「何の、上総の浜から、漁夫《すなどり》の翁でも連れて参れば……」
将門はもう泥んこに酔いつぶれていた。乱舞の声も狂酔の歌も、遠いものにしか聞えていなかった。そこらにいる女と女たちの間に横たわって、眼じりから涙みたいなものを垂らしていた。
——ふと、醒めたのは、暁天の頃である。たれに、どこへ運ばれ、どう寝たのかも、まるで覚えはない。
「……水をくれい」
がばと、起き上がりざま、そういった。
ほの暗い燭と、帳の蔭に、黒髪を寝くたらして、幾人もの女が、木枕をならべていた。——何たる寒々しい光景だ。将門は、水を飲み終ると、ぶるっと、骨も鳴るばかりな胴ぶるいした。
「出かけよう。いや、豊田の館へ、引揚げよう。……もう、桔梗のいた奥の館も、和子の乳の香がしみていた部屋も、あとかたはなく新しい木の香になってしまったが、それでも、豊田の家に眠っていると、そこはかとなく、在りし日のことが夢にも通ってくる。——さあ、ここを立つぞ。女ども、下着を出せ。具足を出せ」
それは、独り言なのか、そこらの女たちに命じているのか、分らない口調であったし、起き抜けだというのに、ひどく腹立ちっぽい荒々しさがこもっていた。
「まだ、きのうの酔いが、宿酔《わるよい》となって、よくお醒めになっていないらしい」
女たちは、畏怖《いふ》して、ささやき合った。
侍臣を、呼び立て、将頼や将平たちにも、出立の用意を伝えさせる。
兵は、愕いた。——朝の兵糧をとれという命令はなく、すぐ、馬を立て並べろとある。
将門は、恐い顔をして、馬上になった。——頭上には、まだ、朝の月がある。
でも、ようやく、三軍が揃って、大宝八幡の社前から、蜿々《えんえん》と、四陣の兵が、序《じよ》に順《したが》って、ゆるぎだしたときは、もう春らしい朝の陽が、大地にこぼれ出していた。
将門は、諸将の馬にかこまれて、むっそりと、苦々しい眉をひそめながら、門前町の辻を、街道の方へ、ゆらゆら、馬首を向けて行った。
道の端や、軒下に、黒々とうずくまって、彼を送迎しているかたちの土民たちは、口々に、新皇様だ、と囁きあった。いつもより恐ろしそうに、そして、上げることもゆるされない首のように、地に低く垂れたまま、じっと、馬のつま先だけを、上眼《うわめ》で見ていた。
「……はてな?」
将門は、へんに思った。
けれど、その日の行く先々の路傍で、彼は同じような庶民を見、また、自分をさして、新皇様と、恐れ囁く声を聞いた。まるで、悪夢を見つづけているような思いである。そうした彼は、やっとわが家の門を見た日、初めて、自分のものらしい息を、ほっとついた。