貞盛の妻
将門は、大宝八幡から、豊田の新館へ帰った後、二、三日というものは、馬鹿みたいに、寝てばかりいた。
まったく、身心ともに、疲れはてたという態である。
まる三日にわたる戦捷と、新年の大饗宴にも、余りに、飲みすぎていたが、何よりは、周囲の有頂天な雰囲気に、悪酔いしたにちがいない。
天皇にされ、新皇万歳だの、王城をどこにするの、左右両大臣以下の任官式——などという悪ふざけが、まだ、彼の後頭部に、むうんと、重たく、祟っているらしい顔いろである。
「さっぱりしない。どうも、気分が冴えぬ。岩井へ移ろう」
岩井の館《たち》は猿島《さしま》郡だ。相馬から渡船《わたし》で一水を越える地にある。船中で酒を酌みあい、寒いが、気は晴れてきた。昼も消えぬ霜の蘆荻《ろてき》の白々とした上に、筑波の山を——遠くをふり返れば、富士も見えた。
「兄者人《あんじやひと》。——常陸の蒜間《ひるま》辺に、敵方の残党が隠れて、何やら目企《もくろ》んでいるといいますぞ」
猿島へ上がると、将平、将文の兄弟が、彼を迎えるやいな、そう告げた。
「なに、残党が、うごいていると」
将門は、このところ、ひどく神経質になっていた。誰か、麾下《きか》の将をやっても足りそうな事なのに、
「すぐ、陣揃いを触れろ。おれも赴く」
と、いい出した。
豊田にいるより、岩井の館で、冬日を楽しむよりも、彼の心理は、今や、馬上の曠野の方が、かえって心が休まるもののようだった。——その日に、猿島へ立ち、南常陸方面の、那珂、久慈郡などを巡遊した。
事実、残党のうごきなどは、見られなかったので、庶民の眼からは、新皇の巡遊ぐらいに、見えたのであろう。そしてその行く先々では、将門が好むと好まないに関わらず、沿道の民が、道に平伏していた。郡司や府官は、堺まで出迎え、宿舎には、砂を撒き、白木の御所を調え、ここでも新皇あつかいである。
ところへ、彼の部下が、吉田郡の蒜間ノ江で、敵の一船群を見つけた。
といっても、戦闘にかかってみると、手にあう敵兵はいくらも出て来ず、それらの者を射尽して、あとの船を調べて見ると、女子供や老女みたいな者ばかりが、苫の下から曳き出された。
しかし、その中には、源扶《みなもとのたすく》の妻がいたし、貞盛の妻も、潜伏していた。一夫多妻の世なので、貞盛の妻は、都にもいるはずだが、この地方にも、妻室があったとみえる。
「これは、思いがけない獲物であったわ。貞盛の行方は、とんと、知れぬが……その妻とて、正しく、仇の片われ」
と、部将の多治員経《たじのまさつね》や坂上時高《さかのうえのときたか》などは、大いに誇って、彼女らを辱め、やがて、将門の前へ曳いて来た。
将門は、そうした敵将の女たちを見ると、どうしたのか、眼のふちを充血させ、鼻をつまらせたきり、ろくに、ものもいわなかった。——思うに、彼の愚痴な性情が、ふと、何かを思い出していたのではあるまいか。
彼の最愛の妻と、最愛の子も、かつて、陸閑岸のほとりで、同じような運命に漂い、敵兵の手にかかって、惨殺された。——はからずも、その敵の妻が、こんどは、自分の前にひきすえられている。
(桔梗よ、わが子よ、因果は、こんなものだ。お前たちだけが、悲運なのではない)
しかし彼は、眼のまえの敵将の女たちを、桔梗が受けたごとくに、また、わが子がされたように、刃を以て、なぶり殺しにする気にはなれなかった。
むしろその正反対な、憐《あわ》れみすらわいて、つい、彼らしくもない一首の和歌をよんで、恨みの代りに、彼女らに示したと、伝えられている。その和歌は、
よそにても風の便りをわれは問ふ枝離れたる花の宿りを
貞盛の妻は、泣きぬれながら、
よそにても花の匂ひの散りくればわが身わびしとおもほへぬかも
と、返歌し、また、源扶の妻も、将門の情に、一首の和歌をよみ、共に、縄を解かれて、放たれたという、一挿話がある。
将門のような坂東男でも、多年、都に遊学し、右大臣家のみやびも真似ていた時代もあるのだから、生涯に一度や二度の彼の作歌があっても、べつだん、それだけを怪しむことはないが、しかし、この話は、たれか後世の将門びいきが作為したものではあるまいか。彼の歌も、貞盛の妻の歌も、何となく、そらぞらしい。巧拙はとにかく、そんなばあいの真情らしい余情もひびきも感じられない。
といって、将門が、彼女をゆるして放した事までを、すべて、虚伝とするのはどうであろうか。貞盛や扶の妻が、身のおきどころもなく、蘆荻のあいだを、漂泊していたなどの事は、当時の実情として、甚だ、ありそうなことだし、将門がこれを殺さなかったという郷土の伝説には、多分に、それらしい事実もあったものと思われる。
とにかく、彼は、こんな事で、むなしく一月末頃までを、空虚に暮していたのである。その間に、偽宮の造営を計ったとか、貪欲《どんよく》に人民の財物を集めたとか、兵馬の拡充を急いだらしい痕跡もない。うかつといえば、じつにうかつな限りだが、周囲や世上の渦が、どう彼を大野望家に仕立てようとしても、彼自身が内面に、そんな大それた企画もなければ、欲もないのだから、何とも仕方がない。おそらく、彼はなお、都へやった長文の自己弁解の上申が、忠平父子にとりあげられて——やがて朝廷から慰撫《いぶ》の使いでも来るものと、ひそかにそんな期待でもしていたのではあるまいか。そのため、貞盛の妻や、扶の妻なども、助けてやったのではないかと思われるふしもある。
ところが、彼にむくわれて来たものは、
「貞盛に、呼応して、田沼の藤原秀郷が、下野の兵四千をひっさげて、山越えに進軍してくる」
という寝耳に水の報らせだった。