将門遺事
何があっけないといって、史上では、将門の死ほど、あっけないものはない。
が、彼としては、精いっぱい、生きるだけ生き足掻《あが》いた事ではあった。
だが、彼が生存していては、自分の生存に都合のわるい人々が、彼を死へ急がせた。なぶり殺しにしたといってもよい程に。
この日、彼に殉じて、斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
彼の首が、都へついたのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬られ、それが後世の塚や遺跡などになっている。死後には、案外、彼を慕い、彼を憐れむ者が、坂東地方には多かった証拠といえよう。
弟の御厨三郎将頼は、相模へ落ちのびる途中、追捕の手に打たれ、藤原玄明も、常陸で殺された。興世王は、上総の伊南で、射られた。
将平は、陸奥へ逃げ入ったともいわれ、将武は、甲斐の山中まで落ちながら、やはりまもなく命を終っている。しかし、それらの将門の弟たちの没命地にも、土地《ところ》の人々の手厚い埋葬があったとみえ、みな地方地方で祠とか村社みたいな森にはなっている。
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江戸の神田明神もまた、将門を祠《まつ》ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
初めて、将門の冤罪《えんざい》を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
旧、大蔵省玄関前には、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の兜《かぶと》神社、鎧橋《よろいばし》などの名も、みな将門の遺骸とか、遺物とかに、因《ちな》みのあるものと、いい伝えられている。
そのほか、将門伝説は、関東地方一円にあって、挙げきれない程である。けだし、将門の子孫とか、坂東平氏の末流とかいうものが、この地方の土壌には、草分けの家々として繁殖して来た関係によることはいうまでもない。
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ここで、乱後、おかしなことは、征夷大将軍忠文の、凱旋ぶりと、論功行賞などの取沙汰である。
彼の正統な討伐軍が、坂東へ着いたときは、もう戦乱は、終っていた。それにたいし、秀郷が、どんなあいさつを以て、朝廷から節刀を受けて来た征夷大将軍をあしらったであろうか。前後の事情を想像してみても、興味ぶかいものがある。
忠文のばあいは、凱旋ともいえない帰還だった。そのせいか、都に帰っても、朝廷からは、忠文以下に、何の論功行賞もなかった。
忠文は、公卿の衆議にふんがいし、それを怨みに、憤死したなどという記事が「古事談」などに見える。
彼の憤死も、また、忠平の子息実頼が、その後、とかく多病がちになった事も、関係者の凶事は、みな、将門の祟りだといわれ出した。いや堂上ばかりでなく、一般が、将門天魔説にとり憑《つ》かれ、悪疫が流行っても、将門の祟り、風水害があっても、将門の祟りだと、一時は、口ぐせに、怯え慄えたものだった。
しかし、純友については、余り、あとの祟りは、いわれていない。彼も、やがて西海のもくずと消え、さしも、猖獗《しようけつ》を逞しゅうした伊予の巣窟も、陥落してしまったが、あとの世まで、妙な陰影は残さなかった。——なぜか将門にたいするような人心の恐怖は残していない。これを見ても、将門の事件には、何かの無理があり、裏面的な事が行われ、あと味のわるいものが、世人の眼にも、うすうす、分っていたのではあるまいか。
忠文の始末は、さきにいった通りだが、押領使藤原秀郷には、将門の首が、まだ、都へも着きもしないうちに、彼への勲功叙位が、発せられている。
しかも、貞盛よりも、数等上の従四位が与えられたのだ。貞盛は、従五位下をもらった。
とにかく、神皇正統記《じんのうしようとうき》などに、「平将軍《へいしやうぐん》貞盛、宣旨を蒙るによつて、俵藤太秀郷の官軍を引率して、下総へ発向——」などとある記事は、総じて後の粉飾である。後世の武門武家が、系図の上で、その家祖を、秀郷としたり、貞盛とあがめたりした関係から、箔に箔をつけてゆくうち、史上の英傑のように称えられて来たものといってよい。
だから、秀郷、貞盛などは、今日まで、どんな美名をもって来たところで、それは偶像であって、ほんとの人間そのものではなかった。しかし将門は、今でも人間そのままを感ぜしめる。天慶以来、一千年。大逆人の濡れ衣《ぎぬ》を着せられて来たが、もう彼の偽官《ぎかん》だの僭上説を、真にうける人はいない。やはり、さいごは、裸の彼が、残ったともいえる。裸は尊い。いや、裸以下には正味の価値は下がらない。
世に弄《もてあそ》ばれた将門とは反対に、世を弄んだ不死人のごときは、どうしたろうか。南海の賊も、討伐されたので、彼の帰る塒《ねぐら》はもうなかったろう。都の秩序も、いつまで、彼らの跳梁に都合のよい状態を持続してもいなかったであろうから、そのはてはおよそ知れている。世を弄ぶつもりの彼や純友一味の輩《ともがら》も、結局は、時代の風に、片々《へんぺん》の影を描いては消え去る落葉の紛々《ふんぷん》と、何ら異なるものではなかった。