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上杉謙信03
日期:2018-11-29 22:09  点击:239
 斎藤下野
 
 
 斎藤下野《しもつけ》はおそるおそる主君と貴賓の前にすすんで行った。そのすがたを、近衛前嗣《さきつぐ》は眼もはなたず見ていた。どうも驚いたという顔つきである。越後にもこんな侍がいるのかと思ったらしい。その斎藤下野とは、一口にいえば、見ッともない小男というしかないが、その上に、左の一眼はつぶれているし、足は跛行《びつこ》をひいている。
 だが、謙信としては、可愛い部下に変りはないらしく、下野が貴賓に対して、極めて遠慮がちに坐りかけると、
「もっと寄れ」
 と、手ずから盃《さかずき》を与え、そしていうには、貴様は大の酒好きではないか、折角《せつかく》、きょうの好機を逸して、朝からどこへ行っておった、日ごろの口ほどもない不手柄者ではある——そういって、謙信は、笑いながら叱る真似した。
 下野は、いただいた盃に、拝をして、飲みほした後、
「実は、御先祖の墳《つか》へ、墓まいりに行ってまいりました。早暁に出て、御酒宴の前までには立帰って来るつもりでしたが、古《いにしえ》の蹟《あと》は草に埋もれ田と変り、なかなか見つからないものですから、つい遅く相成りました」
 と、答えた。
「あ。そうか」
 謙信はふと厳粛《げんしゆく》に眉をひき緊《し》めた。思い出したからである。この斎藤下野なるものの祖先は越後ではなかった。この厩橋城から数里の東にある生品郷《いくしなごう》の産《うま》れである。上毛の平野生品の郷《さと》は、建武二年、時の朝賊足利尊氏《あしかがたかうじ》を鎌倉に討つべく新田義貞とその一族が天兵たるの忠誠を誓って旗上げしたところとして誰知らぬものはない。
 わけて謙信は、この上州へ出馬してから、二度もその地へ行って義貞の霊を弔《とむら》っていた。彼は、建武の忠臣が、いかに憤って草莽《そうもう》からふるい起ったか、あだには把《と》らぬ弓矢を敢《あえ》て把《と》ったか、そしてついに国に殉じたか——を征途の夜々の眠りにも考えずにはいられなかった。そして草むす生品の辺をさまよい、幾多の英魂に心からな血涙を手向けては帰った。二度目にはその地の辺に仮ながらの宮祠《みやほこら》を建てたほどである。

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