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上杉謙信04
日期:2018-11-29 22:09  点击:230
 この人こそ
 
 
 由来、謙信は多感な質である。激しやすく感じやすい。二十歳ごろまでは、まま女のごとく泣くことすらあった。その前後には、多感なるばかりでなく、多情の面も性格に見られたが、翻然《ほんぜん》、禅に入って心鍛《しんたん》をこころざしてから一変した傾きがある。といっても多情多感な性は、もとより持って生れたもの、禅によってそれが血液から失《な》くなるはずはないが、その強烈を挙げて、将来の大志へ打ちこめて来たのである。大義には哭《な》くが、小義には哭かない。怒れば国の大事か武門の名かで、平常は至極無口になった。たいがいなことは、切れ長な瞼《まぶた》の辺で笑っている。ちと、壮年者には似あわないがそういう風格に変じて来た。
 そのかわり理想とするところへは独往邁進《まいしん》、着々と無言で進んでいる巨歩のあとが窺《うかが》える。そのもっとも偉なのは、上洛《じようらく》朝拝の臣礼を、彼のみは怠らずにいることである。
 京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、各自国の攻防と一身に気をとられて、まだその挙《きよ》のないうちから、謙信は、天文二十二年のまだ弱冠のころに逸《いち》はやく上京し、時の将軍義輝を介して、朝廷に拝し、天盃《てんぱい》を賜わり、種々の献上物を尊覧に入れなどして、臣謙信の把《と》る弓矢の意義を世に明らかにしていた。
 つづいて、おととし永禄二年にも上洛した。度々の彼の忠誠に、朝廷におかれても、御感悦《ごかんえつ》はいうまでもなかったが、関白《かんぱく》の近衛前嗣《さきつぐ》などは、ひそかに彼のために案じて、
(遠隔の地、こうお留守になされては、御本国の領も、さだめしお心もとないことでしょう。あとの御守備はだいじょうぶなのですか)
 と、訊ねたことがある。
 すると、謙信は、
(ほかならぬための上洛。領土のことなど、一向に捨て置いてもかまいません)
 と、答えた。
 いま割拠《かつきよ》する諸国の群雄にとって、血まなこ、血みどろな、第一の関心は、その領土である。寸土尺地にも鎬《しのぎ》を削りあって他事もない有様の折である。そのなかで謙信のこのことばを聞いた関白前嗣《さきつぐ》は、
(この人こそ)
 と、彼に真実を認めた。見込んだのだった。応仁以来の道義のみだれと、朝廷と臣子の道すら怠られている国風のすたれを嘆《なげ》いていた折なので、謙信の一言はいたく前嗣の胸をうった。かかる武将なれば何を打明けまたどんな大義を託しても——と、以来、熊野牛王の誓紙をかわして、ふたりは深く朝廷のために誓いあうまでとなった。
 この正月を期して、遥々、前嗣のほうから下向して来たのも、表面の理由よりは、かねてふたりの胸にそういう心契《しんけい》もあるからだった。
「ほう……。ではお許《もと》の御先祖は、この地の新田一族のものか」
 前嗣は、ふと、謙信と下野《しもつけ》とのはなしへ、傍《そば》からことばをさしはさんだ。
 

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