空文一灰
そのころ、甲州の精鋭が、或いは隊伍し、或いは分散して、北へ北へと動いていたことは頻《しき》りなものであった。
大軍団の移動は、当然、四隣を刺戟するからである。ちぎれ雲のように、八ケ岳道、諏訪《すわ》道などから、善光寺方面へさしてゆく人馬は、ことごとくそれだったが、この方面に監視を怠らない越後の諜者も、
「はてな?」
ぐらいで、その目的を不覚にも観破《かんぱ》できなかった。
彼等《かれら》が気づいた時は、世間一般も同時に知っていた。それは青天《せいてん》の霹靂《へきれき》にも似て世の耳目《じもく》を愕《おどろ》かしたからである。
「すわ。また甲越のあいだに」
巻雲《まきぐも》のように揚った戦雲の突然に、その理由も汲めず、百姓はただ往年の恐怖をあらたにしていた。
場所は、野尻湖《のじりこ》の東南で、越後信州の国境にあたり、山地ではあるが、北するも、西するも、南するもここを分岐点《ぶんきてん》とする交通の要衝《ようしよう》で、割《わり》ケ嶽《たけ》の嶮に拠《よ》って、越後勢のたてこもっている一城《じよう》がある。
割ケ嶽の城《しろ》。
ここの圧《おさ》えは、越後にとっても絶対的なものであると等しく、甲斐の武田家にとっても、最大価値をもって見られているものだった。
もし、武田方に、一朝、ここを奪われれば、越後軍は東進南出すべて封じられる運命におかれなければならないし、越後によってそれが扼《やく》されているかぎり、甲山の猛虎信玄も、ついに野尻湖以北——裏日本への展開は将来に望み難いものになる。
で、甲越両国の本能は、いつもこの地方に摩擦していた。奪《と》りつ奪られつ、南へ生き出ようとする生命と、北方へ伸び振わんとする生命とが、峡門に激しあう奔流にも似て、数度の血戦に相搏《あいう》って来たものであった。
けれど、その宿命も、四年前の永禄元年このかたは熄《や》んでいた。将軍足利義輝のあつかいで和睦《わぼく》が成立したのである。相互、誓紙をかわし、神文《しんもん》に誓って、干戈《かんか》を収《おさ》めたのだ。——その割ケ嶽の城に揚った突然な戦火である。世間一般が、
「またか?」
と、怯《おび》えたのも無理ではない。霹靂《へきれき》をうけたように、耳目をしびれさせたのも、両国間の和睦を、永久なものと、余りに過信していたからであった。