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上杉謙信25
日期:2018-11-29 22:18  点击:273
 一笑不敵
 
 
 信玄の質問は、言葉の表に現わされたものだけでなく、斎藤下野の答えから、何か引出そうとする意図を裏につつんでいるようにも思われた。
 いま直《す》ぐにも、彼自身が取る必要にせまられている作戦構想のうえに、「敵国の決意の程度如何」は、もっとも煩《わずら》わされている課題の一つにちがいない。
 その示唆《しさ》を、下野の顔つきから、読み取ろうとするのかも知れなかった。そういう突嗟《とつさ》の機謀は非常にするどい大将だとは下野もかねて聞いているところである。
 下野は、それと覚ったのだろうか、また、どう考えたものか、そのとき唐突に、
「あははは。わはははは」
 汚い前歯を吹き飛ばさぬばかりな声して笑った。そして笑いを収めると、徐《おもむ》ろに答えたのである。
「甲館の主《あるじ》、機山大居士《きざんだいこじ》とは、おそるべき炯眼《けいがん》の持主であると、常日頃から伺っておりましたが、今のおたずねは、子どもの持っている菓子をあやして奪うような御質問で、尠《すく》なからずあなた様の人品《じんぴん》を軽からしめます」
 人も無《な》げである。信玄そのものばかりでなく、周囲にある幕将までをまるで無視している放言だった。当然、あたりに居ならぶ鉄甲燦々《さんさん》たる諸将の感情はうごかずにいられない。ひしひしと険悪な視線や身ゆるぎが、声なきうちに、下野を強圧していた。
 けれども下野にはてんで無反応であった。片目が悪いという特質は、こういう際には至極その平気を持していやすいものらしい。しきりと一つの眼をぱちぱちとしばだたいていたが、いわせておくと、まだいうのだった。
「他国は知らず、わが越後では、軍の方策も、内治の仕方も、すべて謙信公の御一存であって、諮問《しもん》を受くる者も、ごく少数の老臣と帷幕《いばく》のお方に限られております。何でこの斎藤下野のごとき末輩のよく知るところでございましょうや。……それをば、知って来たか、知らずに使者に来たかとのおたずねですが、問わでも、知らざる使者と極っておりますものを。……なぜなればです。もし謙信公の御胸中に、使いの口上とはべつな謀略があるのに使いするなりと、使者自身が知っていたら、敵中にまかり出て、敵の国主に対し、そう恬然《てんぜん》たる虚構を顔に持ちきれるものではありません。どこかに人間の正直なところが出てしまいましょう。それをまた、お見のがしあるようなあなた様でもないことは、謙信公以下、越後の者共、みな心得ぬいておるところでもあります。——たとえば、今年の春、謙信公のお留守に際し、またここ連年、越後遠征に、その疲弊せるを窺い、突然、約を破って、国境の割ケ嶽を奪取なさるなど、猫にしても、狡《ずる》い勘の長《た》けた猫でなければ為《な》し能わないことですからな」
 もう一度、このあとで下野に、哄笑《こうしよう》させる遑《いとま》をおいていたら、信玄の左右の者か、或いは階下の諸将などが、彼の頭《こうべ》へ忽ち土足や唾を加えたかも知れなかった。
 しかし信玄はさすがにそれを苦笑で留めていた。かえって万一の事を庇《かば》うように、下野の言が終るか終らぬうちその巨躯をぎしと床几《しようぎ》から上げて、
「この舌長奴《したながめ》を、雲峰寺の堂衆にあずけ、信玄が凱旋の後まで、慥《しか》と、穴倉へでも抛《ほう》りこんでおけと申せ。その余の輩《やから》もすべて獄に下げろ。——いずれ帰国の後《のち》にする」
 いまはこんな者どもの始末をしている遑《いとま》などは持たん——という信玄の容子《ようす》はすぐ諸将の心に映《うつ》った。
 信玄が、床几から身を起したことは、その一動作がすでに全軍へ向って、
「いざ——」
 との発向を命じているものであった。
 廻廊の東西、両隅に佇《た》っていた螺手《らしゆ》が、貝の口を唇に当てて、細く高く長く短く、貝の音を吹き鳴らした。
 貝の吹き方は、国々で法がちがうという。いずれにせよ出征の武者たちは、その音色を五体で聞きわけて、忽ち、ひたぶるな血を沸《わ》かし、眼に戦場をすでに観ている。
 また、あとに残る国中の人々も、その音に依って、軍の発向を知り、軍に従ってゆく知縁《ちえん》の将士を想いに描きながらその一瞬を胸の中で祈念していた。

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