虚相実相
日傘を翳《かざ》した使者舟は、ふたたび千曲の水を渡って、対岸へ帰った。
遥か、雨宮の渡し一帯にかすんでいる甲軍の陣気は、いかに使者の帰りを待ちぬいているか、その旗叢《はたむら》に鳴る風の音にも知られるほどだった。
「初鹿野どの、今、帰られました」
中軍にある信玄へ、こう早口な声がつたえられると、帷幕の空気は俄然色めいていた。伝右衛門はつかつかと通って、信玄とその一族諸大将の床几から遠く平伏した。
「……どうだった」
信玄の問いである。
率直な問いに、率直な答えをもって、伝右衛門は、観て来たところをいった。
「——敵営は非常なる落着き方です。謙信の眉宇《びう》にも必勝を期しているかの余裕がうかがわれます。また将士もみなこんどは死を誓って国を出て来たかのようです。陣中の清楚、秩序の整然、一糸の紊《みだ》れも見えません。以上、綜合して愚察しますに、妻女山の布陣は、決して彼の無謀、無策ではありません。さりとてまた、企画ある兵略とも思えません。——そこでいえることは、無策の策、無法の法ということです。素裸の陣です。捨身の斬込みを構えているものです。さもなくては、あのように、主将謙信の中軍に禅寺のような虚《きよ》が感じられるはずはありません。虚即実です。何か、そこへまいったせつな、身ぶるいのわくような虚相と実相の両面に圧し挟まれた気がしました。ゆめゆめそれへ夜討《ようち》朝駈けなどの奇兵を出すべきではありません。実相の内に囲まれても、虚相の空《くう》に囚《とら》われても、悉く生きて帰ることはできないでしょう」
と、縷々《るる》述べた。
もちろん、こちらの口上に対する、謙信の返答も、ありのまま、それはその通り口写しに話した。
信玄は、沈黙して、終始、耳をかたむけていた。毛の生えている耳の穴のわきに一すじの血管が太く膨《ふく》れていた。
日の没するまで、ここの陣中は何やら騒然としていた。それは妻女山の中軍とはまるで正反対なものであった。信玄のいる帷幕には、彼の一族と甲山の星将とが半日も鳩首《きゆうしゆ》して、その人々が入り代り立代り出はいりしていた。陣外の馬匹までが、ここでは実にやかましいほど、悍気《かんき》を立てていなないている。
墨のような秋の夜が、また虫の音と星ばかりな天地を現じた。陣々から霧のような炊事のけむりが立ち昇ってから程なく武田方の旌旗は徐々うごき出した。千曲川の上流へ向ってである。もとより妻女山の敵はこれを凝視していると見なければならない。移動中の側面へ向って、いつ何時、対岸から弾丸の飛雨と騎兵隊の猛突が水けむりをあげて猛撃して来ないと計られない。その備えは充分に構えながら——、すこぶる危険な払い陣を敵の眼の下で行っているのだった。
その蜿蜒《えんえん》たる黒い流れは、千曲川の水幅よりも広く長いかと思われた。そして夜半ごろ、先鋒の一部はすでに千曲の支流、広瀬のあたりを渡渉《としよう》していた。
「……読めた。信玄の肚は」
妻女山の上では、謙信がきっとこう呟いていたにちがいない。——甲軍が広瀬の流れを渉《わた》りにかかったことは、直ちに、その全軍が海津城へ赴こうとするものであることを察するに難くないからである。ひとまず海津の城へはいって、そこの味方、弾正の人数と合し、更にその兵力を大にして、信玄があらゆる智略と用意をもって、この妻女山へ答えようとするものであることが、謙信の胸には、北斗を数えるように歴々と分っていた。