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上杉謙信41
日期:2018-11-29 22:25  点击:247
 啄木の戦法
 
 
 狭間《はざま》の外は、乳いろに煙っていた。霧とも小雨ともつかないものが降っているらしい。
「兵部は、どう存ずるか。忌憚《きたん》なくいえ」
 信玄の眼がそそぐ。琥珀《こはく》の玉のような眼だ。その眼のうごきを中心に、きょうも軍《いくさ》評定だった。
 海津城の中である。大仏の胎内にでも居るように薄暗くて洞然《どうぜん》たる感じがする。
 昼間だが、所々に、燭が置かれ、湿々《じめじめ》とまたたいていた。
 評定に列しているのは、一族、宿将、城主の高坂弾正《こうさかだんじよう》など、極く限られた範囲の有資格者だけに過ぎなかった。
 飯富兵部虎昌《おぶひようぶとらまさ》は、甲山の猛虎といわれている勇将である。——名に反《そむ》かず、彼は、信玄から発言を求められると、ためらうことなくこういった。
「かかる無為の長陣も、毎日の御評定も、それがしには、無用と申しあぐるしかありません」
「無用とな」
「士気を倦《う》ましめるに役立っているばかりです。御軍勢一万八千が、甲府表を打立つときは、そのまま一驀《ばく》に、妻女山を揉みつぶし、一挙、越後領までも、ひた押しにせんず意気込みでした。然るに、その事もなく、いたずらに御陣を更《か》え、敵をうかがい、謙信の心を測《はか》りなど、いつになきお迷いを示され、更に、当城へお籠りあって、かくの如き連日の御軍議に過ごされておいで遊ばす為——当然、兵は無聊《ぶりよう》に倦《う》みかけておりまする」
 この人にして、これくらいな直言がいえたといえよう。信玄はむっつりと、厚い頤《あご》を、すこし上《うわ》向きにして聞いていた。
 ——それから?
 と、次のことばを待つような顔をしていると、兵部は、なお語気をつよめていった。
「心なき物の影も、心ありげに観《み》れば、種々に観てとれる。敵の妻女山を繞《めぐ》って、謙信の心を測っているのは、あたかも月夜の物影は、悉く物《もの》の怪《け》の如く疑いあやぶむ愚《おろか》にも似ておろう。それがしが観るに、謙信に策無しと存ずる。彼になんの策あるに非《あら》ず、ただ味方のものの思い過ごしじゃ、われと我が影を投げて、それを解かんと苦念《くねん》する業《わざ》にも似ておりましょう」
「うむ、それも一理」
 信玄は、敢て、叱りもせず、反対の言も吐かない。おもむろに、また真田幸隆《さなだゆきたか》をかえりみて、
「そちは」
 と訊く。
 幸隆は、ことば短く、
「兵部どののお説、ごもっともと存じます」
 とのみ答えた。
「逍遥軒には、どう思うな?」
 傍らの弟へ向って、信玄はまた同じようなことを訊ねた。
 武田逍遥軒も大体、飯富兵部の説を支持して、
「かかるうちに、越後表から更に大部隊の援軍が来合せ、お味方のうしろを断ち、或いは、もっと意表外な作戦に出て来ないとも限りません。その上でのおうごきは、総《すべ》て、後手後手《ごてごて》と相成りましょう」
 と、つけ加え、
「また、当信州は、すでにあらまし甲州の御勢力下にあるものを、その信州へ、深く拠陣を突出して来た謙信に対し、しかも遥かに、その敵方より多くの大兵数を擁しておるわが甲軍が、遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》して、いつまでも手出しも、行動もできぬとありましては、いかにも謙信の器量を怖るるかに見えて、信州諸郡の民心に反映するところも如何《いかが》かと思われます。故に、御決断は一日も早いが利かとぞんじまする」
「うむ、む」
 信玄は、それへも頷いた。
 そして、独り言に、
「軍評定には、いつもこの信玄に向って、良い師言を吐く老人、小畑《おばた》山城入道は病んで死し、原美濃守もまた先年の割ケ嶽の取潰しに当って深傷《ふかで》に臥《ふ》し、ここ、この時に、ふたりの言を聞かれぬは、何やら淋しい。——この上は、道鬼にたずねよう。道鬼、そちの所存は」
 と、山本勘介入道道鬼のほうへ面《おもて》を向けた。
 勘介は、もの堅い老人だった。いつもこの老参謀の言は、信玄と相反《あいそむ》く場合が多い。なぜならば信玄は果断直行に富み、この老人は、ひどく要心ぶかいからだった。
 ところが、きょうの場合は反対であった。常に積極的な信玄がなおうごく気色《けしき》を示さず、いつも消極的な献言をする山本道鬼が、口をひらくと、明快にこうすすめたのである。
「誰方《どなた》やら最前——敵は無策なり——と喝破《かつぱ》せられた御一言、それに極まるものと、わたくしめも、同感にござります。ただし、その無策は、無智の無策、無謀の無策とは、まったく違うものです。思うに、謙信のそれは、生死をこの一戦に賭し、ふたたび越山の郷土は生きて踏まじ——勝たでは踏まじ——としておる恐ろしい決死の無策と観るべきで、お味方のお覚悟も、よろしく、彼に劣らぬまで、必死を以て当らねばなるまいかと思われまする。そして、それと知るからは、何のためらいや候うべき、彼の望みにまかせて、すぐにも粉砕《ふんさい》撃滅を与えてやるが、お味方にとっても、唯一つの御方針と申すしかございません」
「では、あらましの者が、速戦即決に出よというのじゃな」
「まず……」と各、各の面を見交わしながら、
「それと、決まったようにござりますが」
「よし」
 信玄は、厚い膝がしらを、組み直した。そして、初めて自分の決心を告げた。
「評定もきょう限り。謙信に何の策もなきこと、この信玄も今は観ていた。謙信みずから死屍《しし》をこの地へ埋《うず》めに来たとあれば、信玄もこころよく思い残りなき一戦をして見しょう。——道鬼、その戦いに、啄木《たくぼく》の戦法を試みんと思うがどうじゃ」
「啄木の戦法と仰せられますか。さすがに御明察。この際、あの敵、至極妙かとぞんじまする」
 そのとき城外の濠際《ほりぎわ》で、何か喚《わめ》きあう大声が聞えた。席にいた高坂弾正が、何事かと立って、狭間から首を出して覗き下ろした。信玄以下、諸将もみな、しばらく口をつぐんで、弾正の背を見まもっていた。
「気が立っておる。……お味方の足軽共がまた喧嘩でもしたのではないか」
 小山田備中守がうしろからたずねると弾正は、狭間から引っこめた首を振って、
「いやいや、おとといの晩、ひそかに出した大物見の一隊が、ただ今、ひどく射ちへらされて、残る七、八名もみな浅傷深傷《あさでふかで》を負い、城門まで立帰って来たのでした。——あの様子では、よほど深入りして、上杉勢の前哨に取囲まれ、辛《から》くも馳せ返ってきたものでしょう。委細は聞き取って、後よりまたこれへ来て御報告いたしまする」
 そうつげると、弾正は、信玄のゆるしをうけて、あわただしくここから一人だけ退席した。

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