白珠一万三千露
長陣となると、倦《う》み易い。
敵には強い兵も、退屈と闘うことは容易ではない。
倦み——飽《あ》く。
この惰気《だき》からわく霧のような心中の敵は、ともすれば不平をささやき怯《ひる》みを誘い、仲間同士のあらを挙げては不和を醸《かも》し、また、郷愁を覚えさすなど——あらゆる煩悩の弱点を衝《つ》いて、鉄壁の士気を潰乱《かいらん》しに蒐《かか》って来る。
一日とて長い長い戦場だ。それを二十日も一月も対陣のまま、じっと息をこらしている兵は、外には戦っていないが、実は箇々の心の内面に、戦い以上の闘いをしている。
——己れに勝つ!
これへの闘いである。これはまた外の敵に打勝つよりも難しくて、より以上の烈しい気力を要するものであり、長陣となればなるほど濃くなって来る日々《にちにち》の声なき苦闘であった。
だが。
ふしぎにも、この妻女山の兵には、そんな沈澱《ちんでん》は見えなかった。
日々、爽やかな秋が送られている。雨の日とて、霧の日とて、じっと一万三千余人の心が、ひとつ塊《かたま》りになったまま、蕭条《しようじよう》たる中に、煙っていた。これを、不動の体というか、朝霧の陽に霽《は》れあがるときなどは、全軍ひとつの精神から湯気が立ちのぼっているように見られた。
理由は、何でもない。
倦怠や郷愁やまた怯気《きようき》などという果てしない迷いは、生命の安全感が比較的多いところに身を置いているときほど執拗《しつよう》に作用して来るのだった。最先鋒よりも中軍、中軍よりも後陣といったふうにである。
だが、この妻女山には、先鋒も銃後もない。敵の海津城と相距《へだ》つこともわずか一里弱でしかなかった。晴れた日、その山から望めば、かの白壁も、かの旌旗も、あざやかに見えるのだった。今朝ある生命《いのち》も夕べは知れず、夜に結ぶ草間の夢も、あすは知れない生命の露のきらめきに似ている。——ふしぎとそれを観じるのは事なき平常の日の甘い観念にほかならない。ここまで迫るとまったく箇々の生命も研《みが》き澄ました白珠のようになっていた。あらゆる迷執もふり落されてかえって洒々落々《しやしやらくらく》たる天真な笑顔の中に生きていられるのだった。いわんや、この秋《とき》、ただ今日のため、不断に磨き競って来た越後上杉の武者輩《むしやばら》が、この期《ご》においていのち以上のいのちとする士の「道」を鈍《にぶ》らすわけもない。