奇と正
軍令状は、すなわち軍法である。
いま謙信の手から発しられたそれには、こう書き流されてあった。
一 味方士卒にいたるまで、唯今より即刻、兵糧をつかい申す可《べき》こと。
一 有限《あるかぎ》りの物、腰兵糧につくべし。要は明日一日の分にて足る。
一 かねてこの事ながら甲冑弛《ゆる》みあるべからず。草鞋の緒かたくせよ。持道具めいめい日頃手馴れの物たるべし。奇を好み、身に過ぎたるは持つな。不得手の獲物損あり。
一 亥《い》の下刻《げこく》(午後十一時)陣払い。
一 陣所立ち退く前に、諸所の篝火は殊更つよく焚き捨てよ。紙旗、有る限り立て残すべし。
一 敵先鋒《せんぽう》の散兵、間者輩、疾《と》く山へ潜り入ること備うべし。味方、山を出るあとになお百名の屈強は残し行くべし。敵の忍びあらば逸せず討果すこと。
一 予が中軍の馬廻り、大勢は無用、ただ十二人と定むべし。
千坂内膳 市川主膳 和田兵部 宇野左馬介 大国平馬 和田喜兵衛 芋川平太夫 永井源四郎 岩井藤四郎 竹俣《たけまた》長七 清野国生 稲葉彦六
以上は、書付触れであったが、そのほか口授《こうじゆ》伝令で、麓の諸部隊にまで告げ渡って行ったことばには、
「明日、御大将には、遽《にわか》に、御帰国のお旨、仰せ出された。故に、ただいまより匆々《そうそう》に、荷梱《にごり》を仕舞い、荷駄にくくし付けられい。火急なれば、亥の下刻前に御発向仰せ出さるるも計り難い。いつなん刻《どき》にてもすぐ腰立つようお構えあれ。もし途中、敵軍の遮《さえぎ》るあらば、切って善光寺へ出ずるものとお心得あってよかろう」
もちろんこれは寸前まで味方の士卒のあいだにも兵略の機微《きび》を漏らすまいとする万全の用意から出た揚言《ようげん》であった。
一方——
その夜、その時刻のころには、甲軍の海津の城でも、戦気殺気、みちみちていた。
二万の軍勢は、はや一人のこらず、足ごしらえまで済まして、城郭《じようかく》の中の広場に、
大奇の部
大正《たいせい》の部
の二手にわかれていた。
腹いっぱい、兵は飯も喰べ終っている。腰兵糧も十分に持った。鉄砲隊は、各火径を二尺五寸断《ぎ》りとし、束《たば》ねて二つ折に腰にさげ、革の弾筥《たまばこ》二つ宛《ずつ》、これも左右の腰帯にくくる。
大部分は、長柄隊である。三間柄、二間半などという長槍を林のごとく持つ甲州自慢の中堅で、いわゆる騎馬精鋭中の精鋭は、多くこの組にあって、
「この一期に」
と、迫る一戦に、腕を撫して、大功を心がけているのである。
「どうしたのだろう」
「まだかなあ」
犇《ひし》めき、犇めき、二万の兵馬は、限られた城郭の中だけに押しあい揉み合いして、ひたぶる進軍の令を待ちしびれていた。
信玄もすでに身を固めて、望楼に床几《しようぎ》をすえ、眼の下に揺れ合っている味方、遥かな妻女山の方へも、こよい一際《ひときわ》、らんらんとしている眼をくばっていた。
かかる間際にも、甲軍の物見は、どうして嗅ぎつけて来るものか、妻女山の動静をつたえて、
「敵はこの宵から荷駄荷梱《にごり》をくくり始め、どうやら彼処《かしこ》の地をうごく気配に窺《うかが》われます」
とか、また、
「越後勢は、明日陣払いして、本国へ引揚げる様子」
とか、いう情勢を齎《もたら》して来る。
「さてこそ」
と信玄は、作戦の図に中《あた》って来たことを喜悦《きえつ》していた。