月の入り
甲軍の作戦内容は、大略、全軍を二分して、例の啄木の戦法で、敵の一面を搏《う》ち、一面を捕捉殲滅《ほそくせんめつ》するにある。
全二万のうち、一万二千人を、大正の備えとし、山の手の多田越えを経て清野《きよの》に出、いわゆる正法攻撃をもって朝懸《あさがけ》に堂々かかる。
べつの八千余名は、まったく方向を変えて、広瀬の渡しを越えて、川中島の平地に進出し、上杉軍が妻女山を降って、この方面へ崩れ立って来ることを必然と見越し、いわゆる奇法をもってこれを要撃するという兵略であった。
「時刻は、いま何刻?」
信玄は、度々たずねた。
侍臣のうちには天象、風向き、気温、晴雨など、そればかり測っている顧問がいる。それは儒者めいた老人で、いつも山本勘介入道道鬼の側にいた。
「亥の刻(午後十時)もはや下刻に近い由にございます」
答えたのは勘介入道である。信玄はうなずいて、また、
「月の入りは」
と、問う。
勘介はまた顧問に糺《ただ》してから答えた。
「こよい九月九日の月の入りは、子《ね》の刻の六分過ぎ(午前零時四十分頃)の由にござります」
「では、間もないな」
「間もございません」
「民部。馬場民部やある」
「はいっ、これに」
「子の刻になったらすぐ貝を吹かせよ。出陣の太鼓打鳴らせ」
「承知いたしました」
「城門を出るには、大正の一万二千を先に立たせい。逸《はや》り争わぬように」
各将、心得はもう十分だった。しかし信玄としては、念に念を入れていた。
こうして勢揃いまでしながら、いたずらに時刻を過ごしているのも、夜空の天候が、更《ふ》けると共に一変して来たからである。宵のうちには、乱雲飛々《ひひ》のあいだに、月のこぼれて来る間は短く刻まれていたが、いつのまにか大空の雲は片寄って、広い星梨地《ほしなしじ》の天体が研《と》ぎ出されていた。正法、奇法の襲撃を問わず、戦いを仕掛ける方にとって、月夜を嫌うことはいうまでもない。
しかし、それも夜半までだった。
「太鼓番っ。打てっ」
馬場民部が合図の声を放つのと同時に、望楼の三面に向って立っていた三名の螺手《らしゆ》も、貝口を唇にあてると、満身の息をこめて吹き鳴らした。
長く。短く。また長く——
たちまち脚下の満城の地には、草摺《くさずり》のひびきや馬蹄の音が鏘々《しようしよう》と、戛々《かつかつ》と、眼をさました濤《なみ》のように流れ出すのが聞えてきた。
「では、お先を承りまして」
山本入道道鬼が、まず座を立った。
つづいて、
「——御免を」
と、飯富兵部、春日弾正、馬場信春、真田幸隆、小山田備中守、甘利左衛門尉、相木市兵衛、小畑山城守など、続々、信玄にあいさつして、信玄の周囲から立去った。
それらの諸将はみな、妻女山の正法攻撃隊に属し、山の手越えにまわる人々であった。
信玄自身は、先発一万二千の出城を見送ってから、約半刻ほどおいて海津を立った。奇法要撃隊の八千をみずから率《ひき》いて道をまったくべつにとり、広瀬の渡しをこえて八幡原へと志したのである。そこまでの道程とては大してないが、一万二千の兵馬、つづいて八千余人の列を作って城門から出るにはかなりな時間を要したとみえ、目的の川中島のてまえ八幡原に着陣したのは、もう払暁《ふつぎよう》に近い上刻《じようこく》(午前三時半)頃になっていた。
これへ着くやいな信玄は、
「本陣は、八幡神社の境内に」
と、すぐ指定し、
「要所要所、土を掻きあげ、土居《どい》(防塁)をつくり、壕(塹壕《ざんごう》)を掘れ」
と、命じた。
まだ真っ暗な地上に、工兵たちが、孜々《しし》として活動しはじめるうちに、はやくも信玄の本営の幕囲《かこい》は八幡神社の境内に張り繞《めぐ》らされ、かの孫子の大旆《たいはい》、諏訪明神の旗は、もう血ぶるいして鳴りはためき、帷幕の十二将、百余騎の旗本たちを初め、八千の全将士は、眉を霧に濡らし、草鞋脛当《すねあて》を草露に埋《う》めて、ともすれば上《うわ》ずりやすい英気を確《しか》と丹田に嚥《の》み下《くだ》していた。
ゆうべは宵まで雨のこぼれたせいか、今暁の霧のひどさは格別であった。咫尺《しせき》も弁ぜずという濃霧である。ために、旗や馬印からも、兜の眉《ま》びさしからも小雨が降っているのと違わないほど、のべつぽたぽたと雫《しずく》が落ちていた。