捨て篝火
山越えの迂回をとった正法攻撃隊の進路は、かなり難行軍だった。
西条から道は登りとなり、多田越えはわけて道が狭い。
月の入りを待って立ったことなので、忍び松明《たいまつ》は充分に携帯したが、それも余りに火光で天を焦がすと、敵の偵察に嗅《か》ぎ知られる惧《おそ》れが多分にある。
山は小さいが、峰道もあり谷もありして、清野へ出るまでには兵馬は汗をしぼった。近間な距離ながら時間を要したこというまでもなく、曳々《えいえい》として人馬はすでに戦っているに等しい呼吸《い き》だった。
「ひどい霧だ……」
「天の御加護。敵は近々と寄るまで、何も気づくまい」
途中で甘利、真田の二部隊は、べつな道へ岐《わか》れた。
物見平の上から、妻女山の搦手《からめて》へ、虚を衝くためにであった。
時。——夜は白《しら》みかけてすでに今日は九月十日。
こんどの大戦初めての喊声《かんせい》は、この夜明け、この攻め口から、わあっと揚がったのである。
朝懸《あさがけ》だ。
攻め貝、鉦《かね》、押太鼓。いちどに天地をゆるがして、側面、正面から、妻女山へかけ上った。
一万二千のあげる武者声は、声だけでも天地を震う。
まるで灰のように小禽《ことり》が立った。満山の木々はおののき、落葉は雨のように降り、濃い霧は渦まいた。
「や、やっ?」
「ややっ?」
「空陣《くうじん》だ」
「紙旗だ」
ここ、彼処《かしこ》に、同じ驚愕と、同じ虚《うつ》ろな叫びが聞え出した。すさまじい勢いでぶつけて来たこの山にはすでに人影もなかったのである。霧にぬれた紙旗の腹立たしさ、まだどかどかと燃え旺《さか》っている捨《す》て篝火《かがりび》の憤《いきどお》ろしさ。
「出し抜かれた!」
武者草鞋の夥《おびただ》しい足は、全山の擬装陣地を、蹴ちらし、踏みつぶし、そしてまた、戒め合った。
「油断するな」
「どこに敵が現れるやも知れぬぞ」
「残念。すでに謙信は、味方のうごきを、先に知っていた!」
遅し、遅し、武田軍。
謙信はそう微笑んでいるであろう。彼の陣払いは、ゆうべまだ月光のあるうちに行われていた。静かに、きれいに、手際よく。
兵は枚《ばい》をふくみ、馬は唇《くち》を縛《ばく》し、月下、山をくだって、千曲川の渡渉《としよう》にかかったころ、漸く、月は没していた。長柄の刃先、太刀の鞘を暗い秋の水にひたしながら、全軍の長蛇は粛々と、狗《こま》ケ瀬《せ》の対岸へ越えていた。
「近江、近江っ」
と、謙信はふと、早瀬の前に馬をとめた。そして、甘糟近江守を後続隊の中から呼んで、
「——寄れ。ここまで」
と、自身の鞍わきまでさしまねき、馬上から身をまげて、何か彼の耳へささやいた。