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上杉謙信53
日期:2018-11-29 22:31  点击:284
 天《てん》まだ晦《くら》し
 
 甘糟近江守の一隊をのぞいて、直江大和守の大荷駄隊を先頭に、全軍は渡りきった。馬も人も濡れ光っていた。
「叱《し》っ……馬を嘶《いなな》かすな」
 馬の口輪でも外《はず》したか、悍気《かんき》を立てた一頭が、耳、鬣《たてがみ》を打振って、高く嘶《な》いた。あわててそれを叱りながら、組の部将は飛びついて、馬の首をふところへ抱《だ》きしめた。
 ——嘶《な》くな。後生だから。
 馬へ頼まないばかりに宥《なだ》める。まさにこれからの前進は、一歩一歩に密《ひそ》かを要した。
 チラチラと、兵の腰から赤くこぼれる光は火縄の火だった。極力、敵に覚《さと》られまい為にはそれを秘したいところだが、敵はすでにすぐ鼻先にぶつかるかも知れないのである。敵を見てから火縄を点じたのでは間にあわない。
 左に北国街道らしき並木。
 行手に、犀川《さいかわ》の水音、また丹波島《たんばじま》の木立らしい影。
 何しろ、霧は深し、夜は明けぬ闇なので、確たる目標はつかないが、先鋒の柿崎和泉守が方向をさぐりさぐり進むのに従《つ》いて、全軍およそ一万二千余の兵と馬と車とは、あらゆる物音をひそめながら、やがて川中島を踏みしめ、北進北進して、犀川の際までそのまま行軍した。
 ゆうべ、妻女山を陣払いするに当って、遽《にわか》に、
(総軍越後へ帰国)
 と聞かされ、そうとばかり信じていた大部分の士卒は、ここへ来るまで、勿論、犀川をなお北へ渡って、善光寺方面へ行くものという考えを少しも疑っていなかったが——先頭の大荷駄、また先鋒柿崎和泉の隊、二陣本庄隊、三陣村上隊また新発田隊、長尾隊、つづいて中軍の謙信以下の旗本群まで——犀川の水を前に後《しり》え押《おし》に脚なみを停めてしまった。
 むらがりあう馬と馬、兵と兵とのあいだから、奔々《ほんぽん》と閃《ひらめ》く川水は前方に見えるが、柿崎隊の大《おお》蕪菁《かぶら》の馬簾《ばれん》や、中軍の中之丸旗、毘沙門旗《びしやもんき》のいたずらに啾々《しゆうしゆう》と嘯《うそぶ》くばかりで、いつまで経っても馬すすまず兵渉《へいわた》らず、ただ後から後からと来る兵馬がここに万余の影を重ねて、見るまに真っ黒な大集団を霧の中に肥らせてくるばかりだった。
「——渉《わた》り出したか、先鋒は」
「まだだ。……まだらしい?」
「どうしたのか。いったい」
「わからん。何か、中軍の御主君をかこんで、諸大将が寄っている」
「立ち評定か」
 後方の足軽組などのあいだに、そんな私語《ささやき》がやや騒《ざわ》めきかけたと思うと、たちまち謙信の声と、その姿とが、全軍の上へ向って、
「小荷駄、大荷駄をのぞき、先鋒隊より順次、犀川を左に見て、東——八幡原のほうへ向って徐々迂回《うかい》前進せい」
 という大号令が聞えた。
 馬の草鞋はまた石ころを蹴り出した。急角度に、兵列は右へ右へと旋《まわ》り出した。そしてこんどは、それまでの縦隊一列を、歩みつつ旋《まわ》りつつ変更して、各部将の指揮の下に、三行四段という陣形にはっきり備えを正し始めた。
 時に、時刻は寅(午前四時)か、卯の刻(午前六時)には間のある頃。
 もちろん天はまだ暗い。
 その暗いのと、霧のために、このときまだ、越後、甲州、両軍とも気づかなかったが、すぐ前方の八幡原には、すでに武田の大軍陣を布き、信玄の牙営《がえい》とさだめた八幡神社の周囲には、旺《さかん》に壕を掘り、土塁を築きなどし始めていた時分であった。
 その相互の距離は、勿論、後になってから分ったことではあるが、両軍の先鋒と先鋒、わずか十町ほどしか距《へだた》っていなかったのである。

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