驟雨一電
謙信はあたうかぎり馬上の半身をかがませて、面を鬣《たてがみ》に俯伏《うつぷ》せていた。
矢や弾をかわすためにではない。
「信玄近くにあり」
と、思ったからである。
その信玄を見るまでは、ひたすら自分を謙信と敵の目に知られたくない。また、信玄以外の敵と渡りあいたくない。
故にその扮装も、滞陣中より一際《ひときわ》質素にしていた。
黒糸縅《くろいとおど》しのうえに、萌黄《もえぎ》緞子《どんす》の胴衣を着け、白絹の頭巾で、面を行人包《ぎようにんづつ》みにしていたに過ぎず、特に、大将らしい華美はどこにも見えなかった。
しかし駒は名馬放生《ほうじよう》、太刀は小豆《あずき》長光《ながみつ》の二尺四寸。
「信玄、何処《いずこ》に?」
と、炬《きよ》のごとき眼をくばりながら、八幡境内の近くを駆け巡《めぐ》っていた。
ここまで来ると案外敵もつきまとわなかった。血眼《ちまなこ》してすれちがう将士は幾人もあったがよもや敵の大将謙信とは思いよる者もなかった。また謙信も眼もくれない。
ただ、信玄と、有無の勝負を——とばかり、そこらの杉落葉の上に仆《たお》れている旗や楯や雑多な兵具などを踏みこえ踏みこえ尋ねまわった。
このとき武田信玄は、太郎義信の隊を粉砕した敵の一手が、八幡の森の方へ、旋風のように通過したのをながめて、
「抑《そもそも》、敵はまた、何を計るか?」
と、怪しむように、傍らにいた三名の法師武者や数名の旗本と、一かたまりになって立騒いでいた。
何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在《あ》った顔が、うしろを振向いたとき、
「信玄っ、そこかっ」
と、巨大な猛獣に踏み跨がった巨大な人間のすがたが、ふたつの眸《ひとみ》では見きれないほど、すぐ前に大きく見えた。
——あっ。謙信。
ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕《いばく》のうちではあり、君側《くんそく》まぢかにいた人々はみな槍とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、
「すわ」
と、狼狽《ろうばい》した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、
「おのれッ」
ひとりの法師武者は、そこにあった床几を遠く投げつけた。
中《あた》ったか、中らないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の葉がこぼれ落ちた。その巨杉《おおすぎ》の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、屈身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛の脚は踏みこんでいた。
「くわッ」
と、響きがした。
謙信の口から発した声か、振下ろした小豆《あずき》長光《ながみつ》の音か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに仆れ、陣幕の紐を断《た》って仰向《あおむ》けに転がった。
しかし、それは、信玄ではない。——信玄は、身を避けて、あたかも藪の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。
いや、その眸が、それを見るというまもなかったほどである。謙信は、右覗《みぎのぞ》きに、一太刀伸ばした体を左転して信玄のほうへ向けるや否、ふたたび、
「かっッ」
と、さけんだ。
正しく、こんどのものは、謙信の腹の底から出た声である。信玄は突嗟《とつさ》、右手の軍配団扇《うちわ》を伸ばし、わずかに面《おもて》を左の肩へ沈めた。
しびれた手から軍配団扇を捨てた。そして大鳳《たいほう》が起つように身の位置を変え、太刀のつかへ手をかけたとき、謙信の二太刀目が、彼の転じたあとの空間を斬った。
その、せつなであった。
御小人頭《おこびとがしら》の原大隅は、彼方に落ちていた青貝柄《あおかいえ》の槍を拾って、
「うわうっ」
と、噛みつくような声を放って駆けて来たが、主君信玄の危機、間一髪に、その槍で、馬上の敵を突きあげた。
謙信は、見向きもせず、
「機山《きざん》、卑怯なるぞ」
と、三太刀めを振りかぶりながら、馬ぐるみ、信玄の上に躍りかかろうとしていた。
右の腕に負傷した信玄が、その肘《ひじ》を抱えたまま、身を翻《ひるがえ》して、後ろを見せかけたからである。
その後ろ肩を臨んで、小豆長光のひかりが一閃を描いたが、ほとんど同じ一瞬に、放生月毛は一声《せい》いなないて竿立ちに脚を上げてしまった。——余りに気の急《せ》いた為、一槍、むなしく突き損じた原大隅が、
「ちいッ」
と、ばかり反れ槍を持直して、謙信の馬の三頭《さんず》を力まかせに撲りつけた為であった。