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上杉謙信72
日期:2018-11-29 22:38  点击:280
 戦局更《あらた》まる
 
 
 遅かった。
 妻女山から転じて来た友軍の来援は余りにも遅すぎる。
 信玄をはじめ、苦戦にあった武田方の将士はみな、
(何しているのか)
 と、今の今まで、心中に怒っていたにちがいない。
 けれど、妻女山へ向って、謙信の去ったあとに臨み、空しく空虚な敵陣に立った彼らとしてみると、無理もない点もある。
 朝から午まえは霧が深く、上杉勢の方向がまったく知れないこともその一因だが、何よりは、次の行動に移るに当って、上杉方にどんな詭計《きけい》があるかも知れないと大事に大事をとったこと。
 それと、もう一つは、山を降って、渡河に移ると、対岸の小森河岸の丘に、上杉方の勇将としてたれも知る甘糟近江守が、十二ケ瀬一帯を扼《やく》して、
 ——敵河渉《ワタ》ラバ河ノ半バニシテ打ツ
 という孫子の兵法が曰《い》っている通りな姿勢をもって備えていることだった。
 このため、時刻はさらに延びて、評議区々《まちまち》のうちに、遠く川中島方面に、銃声が聞える。鬨の声があがる、霧に代わって濛々と馬けむりが立ちこめているかに望まれる。
「しまった。敵の主力は、かえって、手薄な味方の主力を強襲した。猶予はならじ」
 上流と下流、ふた手から渡渉《としよう》にかかった。単騎で渉るのとちがって、備えも要る、時間もかかる。
 ここの兵数は、別動隊とはいえ、さきに八幡原へ出ている信玄の主力よりも、遥かに、人数は多く、十将十隊に組まれ、総勢一万二千はあった。
 さればこそ謙信は、もっともこの一団雲が妻女山から移動して来ることを警戒していたのである。その抑えに、小森の丘に、今朝から満々と陣取っていた甘糟近江守は、
「今ぞ」
 とばかり、敵がまだ此方の岸を踏まないうちに、それへ向って弓鉄砲を浴びせかけた。
 着弾距離内の水面には、雨のようなしぶきが立ち、水は紅《くれない》に変じて、仆《たお》れては、浮きつ沈みつ流れてゆく者が数知れなかった。
 初め謙信は、その全陣の鉄砲組を、殆どここに残して行ったようであった。彼自身の軍隊は、当初から「一手切」の戦法を気構えていたので、弓、鉄砲も無用と見越していたからである。
 しかし、渡河中の犠牲など元より覚悟だし、それに怯《ひる》む新手ではない。たちまち、下流からは馬場民部、甘利左衛門などの隊が駆け上がり、上流には、小山田備中、小畑山城、真田弾正などの諸部隊が上陸していた。
 このとき、越後の甘糟近江守とその手の者の働きは、実にめざましいものがあって、後々まで、
 ——上杉家に甘糟あり。
 と天下の著聞《ちよぶん》になったほどだが、いかんせん本軍と連絡のない単立の一部隊では、どう奮戦したところで、一万二千の潮《うしお》を長く防いでいることはできない。
 上流から突出した敵勢は、早くも八幡原に達した。殆ど、瀕死《ひんし》の状態にまで撃攘《げきじよう》されていた山県昌景の隊とついに合流して、その当面の敵軍——越後の柿崎隊の勝ちほこっていたものを——見るまに反撃し、追い討ちし、潰乱《かいらん》せしめた。
 下流から上がった甲軍の新手も、ひた押しに、上杉勢の背後を圧した。遠く、信玄のいる八幡神社方面にする本軍の——わあっ、わあっという喊声《かんせい》にこたえて、こなたの野末からも新たな力のある鬨《とき》の声をあげながら、上杉軍の側面を猛撃して行った。
 ここには、越後の直江、安田、荒川の諸隊が駆け向う。
 押しつ、押されつ、怒濤と、果てもなく、血はけむり立つ。

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