傷軍の将は母心に似る
犀川《さいがわ》の岸まで謙信は一気に馬を跳《と》ばして来た。
つい一刻まえには、単身、甲軍の本営を、その馬蹄に懸けちらし、信玄の頭上に、一閃光《せんこう》を下した彼が、いまは身を退くに、何の歯がみもためらいもしていない。淡々たるすがたである。
「待て待て、千坂」
内膳がすぐ彼の駒を流れに曳き入れて、河を渡ろうとするのを拒《こば》んで謙信はふたたびそこに駒を立てていた。
「おう、そこにおいでですか」
先に、諸方の味方へ、総引揚げを伝令しに行った大国平馬や市川主膳など、前後して、彼のそばへ戻って来た。
なお佇《たたず》んでいるうち、高坂隊の先手を防いで、ようやく血路をひらいた鬼小島、永井、竹俣など数名も、朱にまみれたすがたをもって、ここに寄り集まった。
十人、二十人と、ぼつぼつ他の味方も寄って来る。しかしその兵種も所属も雑多だった。それを見ても、いかに味方の主力も各隊も寸断され、各いるところに苦戦して、全面、混乱に陥入《おちい》っているかが察しられるのだった。
水淙々《そうそう》、風蕭々《しようしよう》、夕闇とともにひどく冷気も迫って、謙信の胸は、なお帰らぬ麾下《きか》の将士のうえに、傷《いた》み哀《かなし》まずにはいられなかった。
「新発田尾張、新津丹後。また本庄越前、北条安芸などはいかがいたしたか。柿崎は首尾よく退口《のきぐち》を取ったであろうか。直江は……」
鬼も挫《ひし》ぐ軍神《いくさがみ》とも見えたその人が、薄暮の野を見まわして、われともなくそう呟いているすがたは、まるで帰らぬ子を門辺《かどべ》に出て待っている母のように他念なかった。
「だいじょうぶです。お案じには及びませぬ」
大国平馬が力づけていう。
「妻女山より加勢の敵は、何分大兵、それに新手《あらて》、一概には支えかねおりますが、お味方こぞって、徐々と、この犀川、丹波島の此方へさして引揚げておりまする。——すでに、お館のなおこの辺に踏み止《とどま》っておわすとは知らず、犀川を越えて、遠くうしろに退きとっている部隊もあるかと存ぜられます」
平馬のことばに従いて、人々も口をそろえて謙信にいった。
「無数をもって、ここにおいで遊ばすことは、かえって、味方の集合に、惑《まど》いを生じさせているやも知れません」
「すこしも早く、犀川をお渉《わた》りあって、無事の地へ、お退き遊ばされますように」
「ここにおわしては、いつふたたび御危険が迫らぬとも限りませぬ」
謙信は、諫《いさ》めを容《い》れた。さらばと、川を渉るべく、河原へ駒を向け直した。
ここ丹波島とよぶ洲《す》の上流には、駒の脚も立ち、人間が徒渉しても、首の根ぐらいまで水に浸《ひた》れば渉れるところもあったが、ここから下流の方は、断然深い。
千曲は流れもゆるく、瀬も浅いが、犀川はそれに較《くら》べるとはるかに奔激《ほんげき》していた。この川すじの水量が最も浅く涸《か》れるのは、真夏の七月が頂上である。九月、十月となれば、山岳地方の雨期となって、たちまち四、五尺ほどの水量は増してくるのが例年の実状であり、殊に丹波島から下流の方では、人間の徒渉できる程度の浅瀬は一ヵ所もない。
謙信の憂えていたのも、退口退口《のきぐちのきぐち》と頻りにつぶやいたのも、その点に気がかりがあったにちがいない。
もっとも、味方の諸部将とて、みなこの川すじの深浅《しんせん》は心得ている。が同時に、それくらいな常識は武田方の諸将にもある。
従って、いまや優勢な位置に立った敵側としては、極力、その鋭鋒と包囲形を、犀川の下流へと向けているものと思われる。
謙信とその旗本以下、およそ百余人は、まず、謙信をあとに残して、先に十名ほどの下士が槍を杖にしてざぶざぶ川へ入って行った。浅瀬を捜《さぐ》って主君の道を導くためである。
ところが、それらの水先案内が、突然、川の中ほどでしぶきをあげて仆《たお》れた。
鉄砲ではない。
近くで、弦《つる》なりが響いた。——と思うまに、武田太郎義信を主将とした甲軍の精鋭が、
「つつめっ」
「先を取れ」
疾風のように急襲して来た。それは前に襲撃をうけた高坂隊の一組などとは比較にならないほど血腥《ちなまぐさ》い突風を持っていた。いや狂気に近い怒りをすら帯びていた。
一部は、脛《すね》まで水に入り、謙信はなお河原にいた。当然、水けむりを立てて、川の者も取って返した。
竹俣長七は、はや一人の猛敵と、斬りむすび、斬り伏せ、すぐ次の敵と組み、もんどり打って、水際《みずぎわ》までころがってゆく。
「ちいッ」
血の中から立上がって、また直ちに、むらがる甲兵のうちへ駆けこんだ。よろいの草摺《くさずり》は片袖もがれ、兜《かぶと》も失い、髪はさっと風に立っている。
本田右近允は、謙信の眼のまえで、誰やら屈強な甲軍の将と闘っている。まるで鷲と鷲とが相搏《あいう》ッているすがたである。
和田兵部、宇野左馬介のふたり連れは、たえず二本の槍をそろえて、次々の敵を迎えている。
槍《そう》一突《とつ》。これも、小さい戦法といえようか。
そのほか、謙信を繞《めぐ》る近侍は、ひとりとして鮮血にまみれない者はなかった。
百余名は、またたく間に、四、五十名に討ち減らされた。
敵もおびただしい死骸を積んだ。
しかも容易に、退かない、怯《ひる》まない。
それもそのはず、これは父信玄を傷つけられ、自分の隊もひとたびは潰滅《かいめつ》に瀕《ひん》した太郎義信が新手を得て再編制して来た一隊である。
「序戦《じよせん》の辱《はじ》を雪《そそ》がねば、生きて甲州の人々にまみえる面《つら》はない」
という健気《けなげ》なる意気をもつ指導者とその精兵なのだ。ただ恨むらくは、この際の太郎義信も、時すでに水面も暗い黄昏《たそがれ》であったといえ、みすみす眼前にあった謙信を、上杉謙信とも知らずに遂に逸したことである。