孤 影
月一痕《こん》。主従二人。
耳に聞えるものは虫の音《ね》ばかりだった。このあたりは、家も灯影《ほかげ》も見あたらないが、きょう一日の大戦も知らぬかのように、ただ露しげく草深い。
「家はないかの」
「歩むうちに見つかりましょう」
「左馬介。寒かろう」
「わたくしは、お馬の口輪を取って歩いております故、自然、寒さを忘れております。……が、殿こそ、馬上、しとどにお濡れ遊ばして、お体が冷《つめ》とうございましょう」
「火が欲しい。……秋とも思えぬ冷えをおぼゆる」
三牧《みまき》の畠で、河を渉って来た主従は、歩む道に、雫《しずく》の痕《あと》を残しながら、里の灯をさがしていた。
謙信はふと駒を止めて、
「味方の者ではないか。誰《たれ》やら後の方から呼ばわって来るようだが」
と、振向いた。
馬の口輪をつかみながら、左馬介もひとみを凝《こ》らした。白い月の下を、踊るが如く馳けて来る者がある。近づくや否、その者は息あらくいった。
「お館っ。お館でいらせられますか」
「お。和田喜兵衛か」
「あ、あ」
主君の無事を見たとたんに、喜兵衛はそれへ腰をついてしまいそうになった。彼もそこの河に浸《つか》ってこれへ渉って来たので、濡れ鼠であったが、頭部や顔面の血しおは洗われていなかった。
「余の者共はいかがいたした」
謙信に訊かれて、彼は、ふたたび気をひき緊《し》めて答えた。
「和田兵部は、おあとに踏みとどまり、敵大勢を斬って、ついに最期を遂げました」
「兵部も、討死したか」
「また、宇野余五郎どのにも……」と、いいかけて、馬の口輪と並んでいる左馬介の顔を見ながら、喜兵衛は口をにごした。
宇野余五郎はそこにいる左馬介の弟だからである。
「和田どの。余五郎も、果てましたか」
その兄の顔いろに、ぜひなく答えた。
「されば、乱軍のなかに、目ざましい働きをしておられたが、満身数ヵ所の重傷を負い、苦しげにみえました故、それがしが肩にかけて、ついそこの三牧《みまき》の河の瀬まで来ましたところ、河の中ほどまで渡って来ると、それがしの耳元でこういうのです。……所詮、お館に追いついても、この体では、かえって殿の足手まとい、御奉公のすべも尽きましたれば、お別れすると……」
「お。そして」
「呀《あ》と……思う間に、それがしの手を《も》ぎ離し、肩を離れて、激流のなかへ自ら溺れて行きました。呼べど、叫べど、もう影もなく声もなく」
「……そうでしたか」
左馬介は、面を斜めに上げたまま、月に答えている。
謙信は黙々、手綱をすすめた。この暁には、一万三千の兵陣に囲繞《いによう》された総帥が、孤影わずか二箇の家臣とともに戦場を去ってゆくのである。そも主従の感慨はどんなであろうか。戦場は天地を一宇の堂とした大きな修行の床ともいえる。月に白い謙信の面《おもて》には、寸毫《すんごう》といえども、敗けたという色は見えなかった。むしろその唇元には、一業を仕果したあとのさっぱりした寛《くつろ》ぎと、次の戦いに対する構想に他念ないかのような含みすら窺《うかが》われる。