蕎麦《そ ば》の花
謙信が越後路へ落ちてゆく途中、この安田の渡しか、ほかの所であったか、黄昏《たそがれ》頃、道へかかったとき、
(行く手の彼方に、川が二筋見ゆるようだが、千曲の川筋ならば、ふたつあるわけはない。道をとりちがえたのではないか)
と、いったところ、和田喜兵衛が笑って、
(お館にもさすがお疲れとみえまする。あの一筋は川ではなく、蕎麦《そ ば》の花がいちめんに咲いているのでございます)
と、答えたとか。
そんな話がこの地方に残されて、後々まで語り草になったらしいが、これは何かの誤謬《ごびゆう》らしい。
陰暦九月十日過ぎには、もう蕎麦の花ざかりは遅すぎる。こんな口碑《こうひ》が伝わったのは、この戦後、春日山へ帰るとすぐ、和田喜兵衛が変死したところから起ったものと思われる。
途中の食中《しよくあた》りか何かであろう。春日山城へ辿りつくと、喜兵衛はひどく吐瀉《としや》をして死んだ。謙信が、
(不憫《ふびん》な)
と、手ずからその口へ薬を啣《ふく》ませてやったというにかかわらず、息をひきとってしまった。
それが誰とはなく、和田喜兵衛は血を吐いて死んだと伝えられ、その原因は、謙信ほどの大将が、蕎麦の花を川と見違えたというようなことをいったのは、一代の恥としてもよい。世間に聞えては天下のもの笑いにもなる。で、帰城するとすぐ喜兵衛を殺したものである。そうに違いない。——と、風評はこういうのであった。
おそらく、武田方の捏造《ねつぞう》かもしれない。いずれにせよ、理由のない誹謗《ひぼう》である。
しかし、謙信主従が、川中島から越後に入るまでの道は、想像以上な艱難《かんなん》であったらしいことは確実に想像される。寝るにはもちろん食物を得るにも困難したらしい。それに伴う郷土郷土の伝説はいくらもあるが、多くは、蕎麦の花に類したことのみかと思われる。