世評是々非々
春日山へ総引揚げの後も、謙信以下、上杉方の家中はみな、
「お味方の勝ち軍だ」
「敵方の信玄父子は傷ついた」
「甲州の一族大将は、枕をならべて討死したが、それに反して、お味方には一将の首級《しるし》も敵に取られていない」
と、あくまで自軍の大捷《たいしよう》を信じて疑わなかった。
ところが、同様にまた、武田軍のほうでも、
「甲軍大勝利」
を謳歌《おうか》して熄《や》まず、八幡原に踏みとどまって、堂々、勝鬨《かちどき》の式まで行って、甲府へひきあげた。
そこでこの永禄四年の川中島の大戦というものは、いったい甲越のいずれに真の勝利があったものか、武門はもちろん世上一般の論議になり、ある者は、謙信の勝ちといい、ある者は信玄の勝利といい、当時からすでに喧《やかま》しい是々非々《ぜぜひひ》が取交わされていたらしい。
太田三楽入道は、戦国の名将として、尠《すく》なくも五指か七指のうちには数えられる兵学家の一人であるが、その人の戦評として、次のようなことばが伝えられている。
「川中島の初度の槍(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の八まで、謙信の勝目なりといっても誇張ではない。陣形から観ても、上杉勢の先鋒はふかく武田勢の三陣四陣までを突きくずしておる。かつてその旗本まで敵の足に踏みこませた例はないと誇っていた信玄の身辺すら、単騎の謙信に踏み込まれたのを見れば、いかに武田軍が一時は危険なる潰乱《かいらん》状態に陥入《おちい》ったか想像に難《かた》くない。かつは、有力なる大将たちも、幾人となく、枕をならべて斃《たお》れ、信玄父子も傷つき、弟の典厩信繁までが討死をとげたことは、何といっても惨たる敗滅の一歩てまえまで追いつめられていたことは蔽《おお》いようもない事実といわねばならん……けれど、後度の戦(午後より夕方まで)になっては、まったく形勢逆転して、十に七ツまでも、信玄の勝利となったは疑いもない。この転機は、妻女山隊の新手が上杉軍の息づかれを側面から衝《つ》いた瞬間から一変したものであり、上杉方の総敗退を余儀なくされたのは、首将謙信自身、陣の中枢を離れて、一挙に速戦即決を迫らんとしていたのが、ついにその事の半ばに、敵甲軍の盛返すところとなったので、謙信の悲壮極まる覚悟のほどを思いやれば、彼の遺恨《いこん》に対して一掬《いつきく》の悲涙なきを得ない。——しかし、以上のように双方を大観すれば、この一戦は、勝敗なしの相引というのが公平なところであろう」
太田三楽の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府《すんぷ》にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衛門とか、広瀬美濃などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。
家康がいうには、
「あの折の一戦は、甲越ともに、興亡浮沈のわかれともなるところだから、軽々しくうごかず、大事を取ったことは、双方とも当然といえるが、それにしても、信玄はちと大事を取り過ぎている。謙信が妻女山の危地に拠《よ》って、わざと捨身の陣容をとったことに対し、信玄は自分の智恵に智恵負けの形が見えた。また、九月九日の夜半から暁にかけて、謙信が妻女山を降りて川を渉る半途を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に潰滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍が、平野を踏んでから後を撃つ構えに出たのは、信玄に似あわしからぬ落度である。要するに信玄は、謙信の軍を観て、首将謙信の心事を観《み》ぬくことが少し足らなかった」
なお、兵学家の一家言《いつかげん》なども、いろいろあるが、総じて、三楽と家康の批評にほぼ尽されている。
ただ、なおここで、現代から観ていいうることは、信玄はあくまで物理的な重厚さと老練な常識を以て臨《のぞ》み、謙信はどこまでも、敵の常識の上に出て、学理や常識では想到し得ない高度な精神をふるい起して、この戦いをこれほどにまで善く戦ったということである。
もし謙信が、信玄同様に大事をとり常識をまもって、川中島へ出軍したとしたら、その戦前、また周囲の情勢などから判じて、到底越後上杉の名誉はあり得なかったところだった。世評は何といおうと、謙信自身にとっては、絶対な道と二《ふたつ》なき戦法を以てしたことは快戦だったにちがいない。要するに、彼の国防も、彼の進撃も、帰するところの信念はひとつ、
——死中生アリ、生中生ナシ
の一語に尽きるものだった。