わすれもの
「伝右。伝右衛門」
信玄がふと呼び立てた。甲府へ帰還してゆく行軍の途中である。
旗本の列から、初鹿野伝右衛門が、駒を横に出して、お召しでしたかと、側へ寄りそう。
信玄はうなずいて、
「さればよ、いま思い出したぞ、戦場に忘れものして来た。さて、どうなりつらん、急に心がかりになった。急いで、そちはあとへ引っ返し、忘れものを拾うて来い」
「お忘れもの? ……。はて、何をお忘れあそばしましたか」
「いじらしいものだ。それはまだ二十歳《は た ち》にも足らぬ旅すがたの女子。矢弾《やだま》のなかに迷うていたのを、兵に申しつけて、八幡原の社家のうちに庇《かぼ》うておいたぞ。はやく戻って、無事を見て来い。いや、拾うて来い」
「ありがとう存じまする。……いつの間にお目にふれましたやら、果報者、おことばにあまえて」
「そちひとりは、遅れて甲府に入るも、さしつかえない。伴《ともの》うてゆるりと、凱旋せよ」
大軍は、彼ひとりを残して、先へ甲府へ還って行く。
伝右衛門は、主恩に感泣しながら、ふたたび、きのうの戦場へもどった。
一夜の雨に、満地の血しおは、きれいに洗われ、数日の人気もない夜霧朝霧に、踏みしだかれた草の葉も花も、みな生き生きと、姿を擡《もた》げ直していた。
八幡原の森の外に、初鹿野伝右衛門は駒をつないだ。誰が掃き清めたのやら、神社の境内は、きれいに箒目《ほうきめ》すら見えていた。さしもの修羅狼藉《しゆらろうぜき》のあとも掻き消され、そこに見えるのは寂とした中の蔦《つた》紅葉《もみじ》と杉木立の青い仄暗《ほのぐら》さだけであった。
伝右衛門は社家の裏へ歩いて行った。いつぞや水を汲んだ覚えのある井戸のそばに、禰宜《ねぎ》の妻が嬰児《あかご》のむつきを洗濯していた。
「あっ?」
何気なく振向いた禰宜の妻は、伝右衛門のすがたを見ると、すぐいつぞや激戦の恐怖を衝かれたように、濡れ手のまま跳びあがった、極度に顔いろを顫《おのの》かせた。
で、伝右衛門も、物腰に気をつけながら、特にことばもやさしく訊ねた。
「こなたの家に、鶴菜《つるな》という若い女子が世話になっておろうが。わしは鶴菜の身寄りのもの。甲府の伝右衛門が迎えに来た。そういうてくれぬか」
「はい。……かしこまりました」
禰宜の妻は、手を拭きながら、後退《あとずさ》りに彼の前を去った。そして急に台所口から奥へ駈けこんだ。
家の中で、鶴菜の声がした。鶴菜はまだ弾傷が癒えないで床に横たわっていたが、父の伝右衛門が来たと聞くと、濡縁《ぬれえん》まで転び出して来てさけんだ。
「お父さまっ」
この日は伝右衛門もいつぞやのような怖《こわ》い顔の人でなかった。つかつかと歩み寄るなりその腕に、このいじらしいものを深々と抱いて、
「むすめ。むすめ……」とのみでしばし何のことばもない。
父娘《おやこ》の者が、人目もなく、そこに相擁しているすがたを奥から眺めながら、禰宜の妻は、いぶかしげに、懐《ふところ》をあけて、児に乳ぶさを与えていた。