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上杉謙信93
日期:2018-11-29 22:47  点击:255
 大義大私
 
 
 川中島大戦後、もうひとつ謙信の気宇《きう》をあらわしたものがある。斎藤下野、黒川大隅などの甲州に捕われていた使者の一行が、信玄の寛度《かんど》によって、無事、越後に帰って来てからである。
 彼の寛度に対し、謙信ももちろん寛大な処置を早速にとった。国中に監禁している甲州方の隠密数十名を、春日山の城下に寄せ、
「おまえ達も主命をうけてこの越後に紛《まぎ》れ入り、空《むな》しく捕われて、獄中しか見て帰らなかったとあっては、主人にも不面目だろうし、身寄りや朋友にも肩身が狭かろう。越後表にはさして要害という要害もないが、そちこち見たいところを見てまいるがよい」
 と、奉行から達しさせ、役人が連れて、彼らを幾組にもわかち、三日ほど諸所見物させたうえ、旅費を持たせて、国外へ送還してやった。
「いかに信玄が、わが方の使者に、寛度を示したからとて、それは正当に使者として甲州へ赴いたもの。こちらの放したのは、すべて始末のわるい敵の隠密。こんどの御処置は、あまり御寛大に過ぎたようだ」
 非難というのではないが、憂いのあまりに、家中にはこういう声も多少あったが、越後領から放された甲州乱波《らつぱ》の面々は、
「もういかん。二度と春日山の城下へは入りこめない。三日のあいだ、白昼、あのように諸所を歩かされて、城下の女子《おんなこ》どもにまで、この顔をありありと見覚えられては、どう身扮《みなり》を変えても次にはすぐ見顕《みあら》わされてしまう」
 といいあいつつ、また謙信の度量にも惧《おそ》れをなして、這々《ほうほう》のていで甲州へ帰り去ったということであった。
 これを見ても謙信の戦が、ただの自己の遺恨とか利己の侵略でなかったことが窺《うかが》える。彼は敵兵すら日本の一民と観ていた。もののあわれを知る兵家《へいか》だった。敵といい味方というも、この日本国の内においてながしあう血はことごとくみなこの国の大生命ひとつに帰するものでしかないことを達観していた。村上義清の気の弱さを叱ったのもそれだし、敵の乱波に宥《いた》わりをかけたのもそういう心根が肚にすわっているからであった。
 けれど彼はやはり兵家である。絶対に勝たねばならぬことを誓っている。だからたとえ敵方の乱波にそんな処置をとったにもせよ、それが味方の禍いになるような愚《ぐ》は断じてしない。むしろ彼のとった処置は、後々、越後の国防をかえって強化したことになっていたようだ。
 そのほか、彼の一令一言、四十九歳を以て、この世の終焉《しゆうえん》を告げる日まで、事々日常の行いすべて、戦に勝つためのものだった。
 勝たねば、自分がない、自分がなくては、理想の実現は遂げられない。自己を愛すこと、日常の慎み、身の養生にいたるまで、彼ほど忠実な人は武将には稀《まれ》であろう。
 かくはいえその自己は、尋常一様な自己ではない。私利私欲の自己とはちがう。謙信そのものは、すでに謙信一個人でなく、彼が生命をうけた国とひとつものになりきっている。——いわゆる公儀の人、公人の範をそこに持していたのである。
 彼が年夭《わか》くから早くもこういう大義大私に到達していたのは、何といっても、両度の上洛がその信念をかたく誓わせたものにちがいない。二十四歳、越後の辺境から遥かに都へ上って、天顔に咫尺《しせき》し、また当年の落莫《らくばく》荒涼たる御所の有様や朝儀の廃《すた》れや幕府の無力や人心の頽廃《たいはい》など——見るもの聞くものに若い心を打たれながら——実に彼の大志は泉のごとく噴き出したものだった。そのとき上杉謙信なるものの生涯はすでに決していたのである。

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