序
私は、元来、少年小説を書くのが好きである。大人《おとな》の世界にあるような、|きゅうくつ《ヽヽヽヽヽ》な概念《がいねん》にとらわれないでいいからだ。
少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心《どうしん》のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。——今のわたくしは、もう古い大人《おとな》だが、この天馬侠《てんまきよう》を読み直し、校訂《こうてい》の筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
ああ少年の日。一生のうちの、尊《とうと》い季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の退屈《たいくつ》な雨の日や、淋《さび》しい夜の友になり得《う》ればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、痩《や》せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園《はなぞの》だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
この書は、過去の伝奇《でんき》と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは多分《たぶん》にある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、鞍馬《くらま》の竹童《ちくどう》も、泣き虫の蛾次郎《がじろう》も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の腕白《わんぱく》にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。大人についても、同じことがいえる。
以前《いぜん》、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、成人《せいじん》して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、天馬侠《てんまきよう》の愛読者でした——と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこの書《しよ》を手にしたら、諸君の父兄《ふけい》やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の言伝《ことづ》てを、おつたえして欲しい。
——ご健在《けんざい》ですか。わたくしは健在です、と。
そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。